揺らしゆく風 藤の波




 行くぞの一言で、行き先も告げず後をついてくるかを確かめもせず、左之助は歩き出す。

 いつものように胸を反らし肩で風を切っていく惡一文字の背を、剣心は微苦笑で追った。

 どこへ行くのか、東京に不案内な剣心には皆目分からぬ道筋を、坂を上り橋を渡り細い路地を

抜け、左之助は躊躇いのない足取りで進んでいく。

 機嫌良さそうに前を歩む後ろ姿の広い背に、長い足の歩調に合わせて深紅の鉢巻が揺れてい

る。曇りのない赤、漆黒の髪、生成の半纏。上背のある男前を、すれ違う娘達が羨望混じりの視線

で見上げている。

 常は肩を並べて歩くので、こうして左之助の背中を見るのは考えてみれば初めてだ。自分がつ

いていくことを疑いもしない殿様ぶりはいっそ潔すぎて小気味良く、そうしてまた小憎らしい。

 四半刻も歩いたろうか。

 さすがに行き先を訪ねようとした剣心の前で、左之助が不意に足を止めた。

「おう、ここだ。来ねえ、剣心」

 振り向いて完爾と笑う。

 左之助が足を止めたのは廃寺の門前だった。人が居ないのを承知なのか、剣心の手をとって

歩き出す。瞬間慌てて制止しようとしたが、人気がないものを大人げない気がして居心地悪げに

黙って手を握られる。暑がりの左之助の、初夏の爽やかな陽気にすでにしっとり汗ばむ掌が、剣

心のさらりと乾いた掌に吸い付いた。手を繋いで歩み、案外広い境内を左之助は本堂の裏手に

回った。

 目に飛び込むのは藤色と緑の波。

「これは・・・」

 賛嘆しかけて剣心は絶句した。伸びやかに枝を張った古木の藤棚の花盛りは、到底言葉でな

ど言い表せるものではない。ただ目を瞠り、圧倒され、畏敬し、そして陶酔するばかりだ。

「気に入ったか?」

 夢見るように藤に見入る剣心に、左之助は問うような言葉をかける。

「ああ・・・とても」

 未だ手を繋いだままの傍らを振り仰ぎ、頭一つ高い場所から覗き込んでくる瞳を見返し、感謝を

こめた笑顔を向けると、

「へえ。そいつぁ良かった」

 訳の分からぬ返答と笑顔が戻った。

「・・・お前、拙者が花を好むか好まぬか知った上でここへ連れてきたのでござろう?」

 思わず、問いかける。

「いや?此処ぃ、昨日めっけてよ。えれえ豪的だ、お前ぇにもちょいと見せてやるかと思っての。気

にいらざあ、またどっか連れてくつもりだった」

 どう受け取るべき返答なのか思いあぐねて、

「有り難う、左之」

 無難に、だが心をこめてそう言った。

「あの真下へ行って来る」

 藤の花房のたわわに咲き誇る下を指さすと、左之助は握っていた手を解放した。

「おう。俺ぁそっちに居るぜ」

 親指が、背後の堂宇の軒の下を指している。

「ああ」

 微笑で頷き、剣心は藤の下へと歩いていった。見送る左之助の目には、剣心が藤の色に呑み

込まれ、融けてしまいそうに映る。まるで同種として、迎え入れられているかのようだ。

 心ゆくまで藤を楽しみ、剣心は満足げな笑顔で日陰に座している左之助の元へとゆっくりとした

足取りで戻っていく。

 本堂を支える柱に背を預け、足を投げ出し俯いて座る左之助の側まで行き、剣心は彼が眠り込

んでいるのを知った。指先でつついてみたが、まるで目を覚ます気配はない。透明な日射しの下

で、寝顔をしげしげと眺めてみる。

 微風が前髪を揺らして、案外長い睫毛を撫でている。鬱陶しそうだが、左之助はぴくりともしな

い。薄く開いた唇の間に、整って並ぶ皓い歯がほんの少しのぞいている。細い顎がくっきりとした

鎖骨に乗り、その下に、滑らかな浅黒い肌に躍動を秘めた、引き締まった胸板が続いている。もう

一度指を伸ばして、剣心は左之助の頬をそっとなぞってみた。くすぐったいのか、微かに身じろぎ

する。だが、やはり目は覚まさない。

 小さく笑って、剣心は左之助の横に自分も腰を下ろした。厚いわけではないが、がっしりと逞し

い左之助の肩に頭をもたせかけ、目を閉じる。

 渡る風が藤の葉と花房を鳴らし、澄んだ鳥の声が遠く聞こえてきた。





了 
'01.05.19.




<表紙/紫陽花>

 
     
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