冷めかけていた肌に、思わぬ剣心の微かな温もり。

 肌の香り。

 吐息すらも聞き取れる、感じ取れる。

 押しつけられた唇が、大福餅のように。

 「剣心・・・」

 しがみついてきたその力に、左之助の胸は震えた。

 立っていられないのか、あるいは夜風に身をひしいでいるのか。

 剣心は、すがるようにして肌を寄せている。

 ・・・震えている?

 「寒いのか、剣心・・・?」

 左之助、胸乳へ顔を埋める剣心へ手を寄せて、鏡を起こすように面差しを。

 花びら舞う中、彩るものは・・・

 「なッ? は・・・初めて見たぜ、そんな・・・不安そうなツラぁ・・・」

 さりとて。

 表情の変化はさほど感じられない。

 むしろ表情がなさすぎるかのように、無垢なるもの。

 だが、左之助にだけは見えていた。

 剣心の「心」が。

 「左之・・・桜が・・・花びらが拙者を・・・! わかっている・・・わかっているのだ、そのようなことはッ。しかし・・・」

 「剣心・・・?」

 「左之、拙者を離すな。しっかり捕まえていてれ・・・拙者を離さないでくれ、離すな・・・ッ」

 剣心の、絡められていたはずの両手が左之助の襟を掴み。

 力一杯引っ張った、その先は。

 「ん・・・っ」

 唇と唇の合間に。

 一枚の花びら。

 それでも・・・

 「んっ、んぅ・・・」

 小さな妨害は端から眼中になく。

 二人は唇を貪りあった。

 濃密に唇は絡み合い、密室の中で繰り広げられるあまやかな動きは、あっけなく忘我の極地

へと誘う。

 「はぅ・・・ぁ、左之・・・っ」

 ようやく唇を離せば。

 夢現なる世界へ浸る剣心の姿。

 全身を左之助に預け、あえやかな呼吸を繰り返している。

 「ん・・・ぁ、左之・・・いやぁ、もっと・・・唇、を・・・」

 意外なことに。

 剣心は左之助へとなおも腕を絡ませ、身をすがらせてくるではないか。

 「どうしたんだ、剣心。おめぇらしくもねぇ・・・」

 さすがの左之助も、剣心の思わぬ変わりぶりに戸惑いを隠しきれないでいる。

 先刻の、破落戸を相手に流麗なる雄姿を月光に晒していた人物とは思えぬくらい、剣心の瞳

はおどおどと揺れている。

 何事があっても決して取り乱さぬ、ましてや己が心など垣間見せようともしない剣心が、裸の心

で左之助にすがりついている。

 ただならぬ豹変ぶりだった。

 「わからぬ・・・拙者にも、わからぬよ。ただ・・・たまらぬ、不安で、たまらぬッ。どこかへさらわれ

そうで・・・拙者が、拙者でいられないような・・・っ」

 「・・・おめぇ、ひょっとして桜が怖いのか・・・?」

 耳朶に吐息を吹きかけるようなか細さで、左之助は小さく問うた。

 剣心は一瞬、身体をわななかせて・・・コクリ、顎を落とした。

 何を、そんなに恐れているのか。

 左之助には皆目見当もつかない。剣心の怯えぶりは、驚き以外の何者でもなかった。

 これほど風流な眺めだというのに、酒でもあればなお格別な夜だというのに。

 腕の中の愛しい剣客は、雨に濡れた子猫のように打ち震えている。

 「左之・・・っ」

 なおもすがりついてくる剣心が、いっそ哀れで。

 左之助は、細い身体を抱きすくめた。

 何をそれほどまでに恐れる。

 何を、それほどまでに怯える?

 左之助は思う、彼の、肩を潤す茜色の髪の毛へ鼻先を埋め。

 左之助は感じる、どれほどきつく抱きすくめようとも、情人の震えが止まらぬことを。

 と。

 思いもよらず、歯ぎしりをした。

 雷鳴のように、左之助の脳裏に凄まじい雄叫びが轟いた。

 「・・・気にいらねぇな」

 「・・・左之?」

 舌打ちするように呟いた男を、剣心は見上げた。

 炯々とした瞳が、夥しい怒りを燃え立たせていた。

 剣心は思わず、身を竦ませた。

 「柄にもなく風流なんてものを気取ってはみたが・・・せっかく二人きりだってェのに、よりにもよっ

 て桜が俺達の邪魔をしやがる。剣心の心を無用に怯えさえたばかりか、俺じゃなく、『桜』に染

 め変えちまった」

 先ほどまで美しいとさえ感じていた満開の桜が、今では憎らしいほどに恨めしい。

 自らの、手のひらを返したかのような心境の変化に驚きはしたが、それが当然のように思えた。

 桜が、剣心を蝕んでいる。

 自分以外の存在が、剣心を。

 ・・・あってはならぬことだった。

 「へっ、上等だぜ。受けて立とうじゃねぇか。えぇ? 桜さんよぉ」

 「左之、何を・・・」

 「俺から剣心を奪おうったって、そうはいかねぇ。こいつは俺のもんだ、そいつを今、見せてやる

 ぜ」

 左之助の腕が俄然、強くなり。

 夜空の闇よりもさらに深い瞳が、剣心を覆い尽くしていた。

 息も止まるかのような、圧迫る抱擁。

 クラリ、わずかな眩暈とともに・・・

 流れてくるような吐息、頬に感じた時には、唇、左之助の花びらへと重なっていた。

 同じ花びらでも、こちらの花びらは・・・

 すがっていた剣心、つい、その求めに応じてしまい・・・

 ・・・重なる唇は。

 夢を、紡ぎ始める。

 桜色の吹雪の下、艶めく色の睦なる夢を・・・

 

 

 舞い降る花びら、

 月明かりに染まる、青白い肌へと。

 ひとひら・・・また、ひとひら。

 あられもなく、大きくくつろげられた胸乳へと落ちていく。

 朱に染まり、艶やかな肢体をさらける剣心へと。

 瞳は、閉じられているようでいて、閉じられていず。

 絶えず・・・何かを捉え続けているようだが判然とせず。

 ひらひら舞いゆく花びらが、ゆらりゆらりと漂う水底の魚。

 月夜に彩る桜の下は・・・

 目に見えぬ水底。

 剣心は息苦しさを覚え、何度も何度も、喘いだ。

 ・・・足りない。

 空気を・・・空気を・・・

 このままでは、死んでしまう。

 「あ・・・ふぅ・・・」

 こぼす吐息を追いかけて、風に溶け込むそれを追いかけて、剣心はゆるりと腕を伸ばした。

 たった今、吐き出した息すら逃したくはない。

 もう一度帰ってきて・・・楽にさせてくれ・・・

 指先が、弱々しく空を彷徨った。

 彷徨い、流れ・・・やがて。

 「あっ・・・左之・・・っ」

 いつから、そうしているのだろう。

 鋼のように逞しい肉体が、この身体を征服している。

 ・・・熱い。

 肌がじんわりと汗ばんでいる。

 背中が、奇妙に躍動していた。

 筋肉が、微量ながら律動を繰り返している。

 盛り上がり、あるいは急激に落ち込んで・・・

 指先から流れてくる温度の奔流は、剣心を容易く溶解させようとする。

 「はぁ・・・ん・・・」

 赤毛を震わせ、感を震わせ。

 剣心は、小さく吐息。

 苦しい・・・息を・・・空気を・・・っ

 「あぁぁ・・・左之・・・っ」

 密やかに、上下を繰り返す剣心の胸乳。

 左右の蕾、淡く色づき挑むように・・・

 「ひゃっ!」

 何者かのぬめりが。

 その蕾を捉えた、ついばみ、もぎ取るように。

 剣心はたまらず悶え、肢体をくねらせた。

 「どうもおめぇは・・・俺が欲しくてたまらねぇみてぇだなぁ・・・え? 剣心」

 左之助の言葉に、剣心は答えない。

 ただ、闇雲にもたらされる快なる波を泳ぎ続ける・・・

 沈黙もまた、答えなり。

 左之助はニヤリと笑い、唇を鎖骨へ寄せれば。魚のように跳ねる、雫を散らす。

 と・・・

 「へっ・・・俺がせっかく花を咲かせてやってんのに、桜の野郎が焼き餅を焼いてやがる」

 降りしきる花びらは、止めどもなく剣心の肌へ落ちていく、降り積もる。

 左之助、手のひらで邪険に花びら振り払えば、胸乳に桜と見紛う花があちら、こちら。

 「ま、仕方ねぇやな。桜に一役買ってもらってんだからな・・・なぁ、剣心・・・?」

 薄く微笑み、左之助は剣心の瞳を見る。

 剣心は、短い呼吸を繰り返している。

 瞳は瞼の下へ隠されているが、先刻の不安そうな顔などどこへやら、苦悶に染まる面差しがそ

こにある。

 「背中を桜へ預けてちゃぁ・・・桜に何をされようと、文句は言えねぇやな」

 往来の左右、絢爛に立ち並ぶ桜の一つに。

 剣心と左之助は睦み合っていた。

 人が、通る気配などない。

 ひっそりと静まり返った中・・・

 「左之・・・左之・・・っ」

 湿った声は、花吹雪に掻き消されていく。

 「イイ声出すなぁ、今夜は・・・」

 悪寒を肌に這わせながら、左之助はうっとりと独りごちた。

 いつ、解いてしまったのか。

 剣心の袴は、桜の幹へと放置されていた。

 臙脂色の裾から、蒼く光を浴びる脚が、空を突いている。

 左之助はその脚を捉えると、己が腰を添わせ最奥へと滑り込ませた。

 剣心の膝頭が、内腿が割られる。

 少しく赤毛が揺れたが、抵抗する様子など微塵も見せない。むしろ、

 「んぁ・・・」

 小さな喘ぎとともに、潤んだ瞳が左之助を捉える。

 「剣心・・・」

 左之助、乾いてしまった己が唇を舐め上げて。

 両手、やおら臙脂色の裾をつまむと左右へと広げていった。

 その間、左之助の瞳は瞬きすることなく。射るように剣心の面差しを見つめていた。

 決して、逸らすことなく。

 じっ・・・と。

 「やぁっ、左之・・・っ」

 左之助に、見られている。

 表情の変化を、逐一。

 しかも、身体の中心を目の前で・・・!

 みるみるうちに、剣心の頬は羞恥でぼんぼりの如く見事に染まった。

 左之助の瞳に、チリリと宿る仄かな光。

 夜の外気に・・・

 剣心の下帯がさらされた。

 もたらされた空気の冷たさに・・・

 白い内腿の筋肉が張りつめたことを左之助、微笑みの中で感じ取り。

 「へぇ・・・? 美味そうに熟れてンじゃねぇか。熟れすぎて、下帯が濡れてるみてェだが・・・?」

 「左・・・」

 「食っちまおう」

 裾を割り開いたまま、左之助は顎が外れるほど、あんぐりと口を開いた。

 紅い口腔が、地獄の一端を彷彿とさせ・・・

 舌先から落ちた一滴が剣心の、蒼みがかった瞳が捉えた、最後の光景。

 剣心の芯は、熱気にくるまれた。

 「はっ、あぁぁぁッ」

 小鳥のさえずりのような嬌声が、桜の中へと吸い込まれた、後。

 「美味いぜェ・・・剣心・・・」

 頬を挟む大腿を抱え込み、左之助は下帯ごと頬張りながら陶然と。

 ・・・低い声音は、音の波紋が大きい。

 身体の芯でまともに受けてしまった剣心、弾かれるようにして身体を折り曲げてしまった。

 「あっあぁ・・・左之っ、左之ぉ・・・っ」

 頭上で、耳元で響く嬌声に心地よさを覚えながら左之助、貪欲に口腔を開いていく。

 どれほど味わい尽くしても決して満足せぬと訴えるかのように、その様は荒々しく、目を覆うほ

どに淫らだ。

 下帯に包まれしものは、彼のもたらす唾液で鈍く輝きつつあった。

 多分に水分を吸い込み、葛餅のように布越し、透けて見えるのではないかと危惧させるほど

に。

 皮を張りつめた果実のようで、針でも刺そうものなら弾けてしまいそうな・・・

 「剣心・・・どんどん、熱くなっていくぜぇ、ここ・・・?」

 執拗に唇で攻めながら、左之助は鼻を深く埋め込む。

 埋めると、大きく息を吸い込んで・・・

 「あぁ・・・いい匂いだぜぇ・・・っ」

 ・・・「汗」と「雄」・・・そして、むせ返るような「桜」の入り交じった・・・

 左之助は陶酔したように面差しを崩壊させた。

 「いゃ、んっ! 左之ォ・・・ッ」

 剣心は、すすり泣くように悶えた。

 胸の奥底から沸くものは、ひたすらにもどかしさ。

 素たる「剣心」ではない。

 肌ばかりが・・・身体ばかりが焦げる。

 胸が、心が満たされぬ切なさに苦痛を吠える。

 これらもすべて・・・

 左之助がもたらしたもの。

 左之助がいたからこそ、感じられるもの。

 左之助がいるからこそ、得られるもの。

 得られる・・・求められるっ。

 この男が求めてくれる限り、必要としてくれる限り・・・っ

 「左之・・・左之、もうっ・・・早く・・・ッ」

 「何だ、もう限界なのかィ? ・・・しゃぁねぇな」

 満足そうに、左之助。剣心の下帯をゆっくりと解いた。

 喉を鳴らして、左之助。

 肌を震わせ、剣心。

 ・・・夜陰に潜む夢魔も陶然とするような猛りが、姿を見せた。

 天を貫こうとする高ぶりに、左之助は吐息を吹きかけた。

 「へぇ・・・立派なもんだな。そんなにして、俺を待っていてくれたのかよ。うれしいねぇ」

 婉然と微笑んで、左之助もまた自らの高ぶりを引き抜く。

 彼の高ぶりもまた・・・

 剣心は、思わずうっとりと眺めてしまった。

 「ほぉら、思う存分食いな。食って、こいつら以上に・・・桜以上に咲き誇ってみな。そうすりゃ、

おめぇをさらう奴なんざどこかへ逃げちまわぁ」

 華奢な身体を桜の幹へと預け、左之助は赤い前髪を掻いた。

 「・・・入れるぜぇ」

 視界に映ったのは、男の傲岸な微笑みと真っ赤なはちまき。

 それからは・・・

 剣心の記憶は、たどたどしい。

 覚えているのは・・・

 灼熱のような魂の感触。

 火傷するような汗。

 そして・・・

 「あっ、左之! 離すな・・・もっと、もっと、抱きすくめろ・・・強く、強く・・・!」

 「ハハ、そんなに抱いちゃぁ、おめぇの骨は粉になっちまう」

 「構わぬっ、構わぬよ、左之っ。お主ならば・・・お主が、拙者を必要としてくれるならば・・・っ」

 「おめぇはどうなんだ? 俺が必要じゃねぇのか?」

 「お主だけだッ。お主だけが側にいてくれれば、それでいい・・・側にいてくれ、側にッ。あっ、

 左之、左之ぉ・・・!」

 意識が途絶える、その寸前。

 激しい法悦の先にあったものは・・・

 婉然と微笑む桜。

 それが、最後の断片・・・

 

 

 

 己が胸乳に沈む、愛しい男。

 瞼を閉じ、緩やかな寝息。

 赤毛の優男は、微笑を浮かべて彼の髪を指に梳く。

 玉のように噴き出していた汗は、すっかり冷え。

 肌もまた、風へと紛れていく・・・

 幾分、侘びしさを覚えつつも優男、胸の男を愛しく見つめる。

 この男さえいてくれれば、恐れるものは何もない。

 如何なる苦難がこれから待ち受けていても。

 この男は・・・たとえ拒んでもついてくるだろう、追いかけてくるだろう。

 だからもう、何も恐れることはない。

 たとえ些細なことで恐れても・・・

 目の前の桜に恐れても、この男が受け止めてくれる。

 全身で受け止め、抱きしめてくれる・・・

 何が、起ころうとも。

 「左之・・・」

 もう、怖くはない。

 もう、独りではないから。

 今の自分は・・・

 桜、舞う。

 ひとひら・・・ひとひら、ひらり・・・ひらり。

 火照った身体を冷ます、波に流れてたゆたう、二人の男へ。

 包み込むように、妬むように。

 二人の肌を、汚す。

 ひとひら・・・ひとひら、ひらり・・・ひらり。

 ひら、ひらり。

 

 

 

 

<表紙/紫陽花>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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