夢のあと

 

 どろどろの沼、水底を・・・這うように・・・

 力一杯、両手を眼前に突き出して、掻く。

 一手、一腕、一掻き。

 まとわりつく泥、決して拭われぬ、不快感。

 息すら、ままならぬ。

 喘ぐことも悶えることも・・・吐息すら許されず・・・

 されど、 あまりの息苦しさに何度もあがき、泥を掻き、

 どろどろの沼、水底を・・・這う。

 ひたすらに、這う。

 己が心に定めたただ、一つのことを支えに、

 前に、前に、前へ、前へ、

 思いを定め、果たすべく突き、進む。

 ・・・何を求めて?

 何を、成そうと・・・

 疑問を感じてふと、立ち止まる。

 が、立ち止まればたちまち、呼吸の苦しさに喘ぎ悶える。

 止まっている余裕などない。

 動け、前に。

 突き進まねば・・・

 だが、どこに・・・?

 どこへ向かって行けば・・・

 ・・・目的は一つだ。

 だが、方向がわからないッ。

 どこへ?

 前か、後ろか。

 右か、左か。

 どこにある、どこへ行けばいい。

 何を、どうすればいいッ?

 どうすれば、

 「打破できるンだッ!」

 驚くほどの声量があふれた時。

 ガボリ、多量の泥が口腔へと入り込んできた。

 苦しいッ

 肺の中まで、胃の中まで・・・泥で埋まる。

 泥で染まる、泥に支配されるッ

 「嫌だッ。俺は負けねェっ、負けてたまるかッ。俺ァ・・・ッ!」

 こんな泥に呑まれて支配されて・・・

 こんな泥に、

 「泥」に、

 「偽善」に、「理不尽」に、

 「明治政府」に負けて・・・

 「負けてたまるかァ・・・ッ!」

 腹の底から雄叫び、沸き上がる感情に身を任せて男、

 大きく両腕を振るった、その手には。

 己が肉体より数倍もあろうかという得物、

 「斬馬刀」

 「うおぉぉぉ・・・ッ!」

 すべてを振り払うかのように、薙ぎ払うかのように、

 まといつくもの、何もかもを渾身の力を込めて、

 ヴン・・・ッ

 ・・・だが・・・

 相手など、目の前にはおらず・・・

 どこだ・・・誰だ?

 俺の相手は・・・

 相手は・・・そうッ、

 「チクショウ! どこに行きやがったッ? 出てこい、抜刀斎ッ!」

 瞬間、

 一面泥の世界から一変、爽快なる青空、川原端。

 男は斬馬刀を掲げて立っていた。

 と、

 「拙者は逃げも隠れも致さぬよ」

 背後からの突然の声に男、怖気を感じて素早く振り返った。

 そこには。

 斬馬刀に軽々と乗っている赤毛の男。

 柔らかな赤毛翻し、白く底光りする眼光が、男を鋭く睨み据えていた。

 「抜刀斎・・・ッ!」

 自身で吐いた声音には、多量の驚愕と絶望にあふれていた。

 瞳、見開き。

 斬馬刀を薙ごうとした時には既に、

 赤毛は空に飛んでいた。

 「おぉぉ・・・ッ!」

 「飛天御剣流・龍槌閃ッ!」

 失明するかと思えるほどの眩い光。

 輝かしい中に浮かび上がる、紅一点。

 思わず眼を細めた、その瞬間。

 ― 左之・・・お主の相手は拙者ではない・・・

 舞い降りてきたのは逆刃ではなく。

 ゆるやかに腕を広げた温かなるもの。

 ・・・男は・・・

 うっとりと微睡み・・・

 ― お主の相手は、お主そのもの・・・その心の闇・・・

 自分の大きな身体が、華奢な腕の中へと包み込まれた時・・・

 男は、意識を落としていった・・・

 ― 闇を払え、真実を見極めろ。さすれば自ずと、成すべきことが見えてこよう・・・

 「・・・心、剣心ッ」

 「ここにいるでござるよ、左之」

 「!」

 画然、訪れた鮮明なる声音に左之助、驚いて飛び起きた。

 あまりに勢いが良かったのだろう、腹筋がピリリと攣ったがそんなこと、どうでもよい。

 「ハァ、ハァ、ハァ・・・っ」

 異常なほどに呼吸が乱れている。

 体温も高い。

 見れば、全身が汗でまみれていた。

 湯浴み以外では決して外さぬ深紅のはちまきさえ、首筋にぴったりと張り付いている。

 左之助は、己が額に滲んでいる汗を忌々しげに拭い去った。

 「大丈夫か、左之? かなりうなされていたが・・・」

 耳朶に響く声に、左之助はゆるりと首を傾ける。

 ・・・闇の中、薄く浮かぶ赤毛の余韻。

 灯りの潰えた室内、時折鮮やかな面差しが見えるのは、

 鼓膜をつんざくばかりに鳴り響く轟音、雷鳴。

 合間を流れていくのは激しい雨音。

 「左之? どうした? 大丈夫でござるか?」

 じっと見つめたまま、微動だにしない左之助。

 剣心、不安に駆られる。

 「左之?」

 一つの褥の中、身を起こしている剣心の胸元が。

 襦袢がはだけ、稲光の一瞬に生々しく輝く。

 左之助は・・・

 「あ・・・っ」

 剣心の胸乳へと、己が顔を埋めていた。

 「左之? いったいどうし・・・ン・・・っ」

 ゾロリと。

 なまやかなものが剣心の肌を舐めた。

 懐の奥深く、息づく乱れた呼吸が襦袢の中、駆けめぐる。

 自分の倍もある手のひら、背中へ張り付き。

 褥の中へと、押し倒す。

 「こら、左之っ。さっきもしたばかり・・・あ、あぁ・・・っ」

 剣心の言葉など聞こえてはいないのか。

 左之助は無言のまま、貪婪に白い肌を食い荒らす。

 左之・・・?

 何かに・・・恐れている・・・?

 先刻とは比べものにならぬほどの荒々しさに、剣心は意識を翻弄されながらぼんやり思う。

 いや・・・違う。恐れているのではなく・・・

 「あ・・・ッ!」

 空気の闇に溶け込むように、左之助の髪は最も深き迷宮へと沈んでいた。

 剣心は慌てて大腿を閉じようとするのだが、既にもう遅い。

 がっちりと剣心の両脚を押さえて、左之助は刻々と変化を遂げていく裸体に、夢中になっている。

 「あっ、んぅ・・・左之ぉ・・・っ」

 普段らしからぬ、あられのない嬌声。

 冷めかけていた身体に、二度目の炎が宿る。

 「はぁ、左之ッ・・・」

 ・・・同じ屋根の下にいる者達を気にしなくて良い、

 長屋の住人とて、さほど居るわけでもない、

 とりわけ今宵は・・・激しい雷雨・・・

 この声を、聞く者は。

 「左之、左之助っ! あっ、ああぁ・・・ッ」

 稲光、室内を浮かび上がらせたその瞬間。

 左之助の腕の中、剣心の肢体が反り上がった。

 「んっ・・・はぁ・・・っ」

 唇を薄く開き、絶え絶えなる呼吸。

 赤毛を散らしたその様、汗ばんだ肌を見据えながら左之助、

 口腔を満たした剣心の酒を惜しげもなく飲み下し。

 手の甲にて口辺を拭うなり、再び裸体へと挑んでいく。

 唇を塞ぎ、己が肌を合わせ。

 「左之、左之・・・っ。もっと、ゆっくり・・・」

 あまりに激しく、あまりに荒々しく。

 剣心の身体は流されるがままに流されていく。

 何をそんなに、躍起になっているのか。

 剣心には不思議でならない。

 今の左之助は、何かに追われているような切迫感がある。

 焦りがある。

 情熱がある。

 どうしてそれほど・・・

 何を考えているのか、わからない。

 剣心、ふいに彼の顔が見たくなった。

 「左之、左之っ? 顔を・・・顔を見せてくれ、左之・・・っ」

 鎖骨へせわしなく唇を這わせていた左之助を、剣心はやや強引に、面差しを上げさせた。

 そこには・・・

 「左、左之・・・」

 今まで見たことのないような、左之助の面差し。

 あれほど精悍な顔つきをしていた左之助が、情事の最中でさえその名残を残しつつ陶然と、酔

いしれていた左之助が、

 この時・・・

 眉間にしわを刻み瞳を潤ませ、唇をきつく噛みしめて・・・

 泣いて・・・いる・・・?

 「左之・・・?」

 だが、彼は答えない。

 剣心の眼差しから逃れるようにして、その腕に身体を抱きすくめていく。

 ・・・先ほどの夢と、何か関係があるのだろうか・・・

 左之助の様子が豹変したのは、思えばあの夢の後から。

 どのような夢を見たのかわからない。

 だが、苦しみに悶えていた姿から察するに、よほど辛い夢であったに違いない。

 そのことが、今の彼を苦しめているのだろうか・・・?

 焦燥感に苛まれているのだろうか・・・?

 とにかく何かが、左之助を突き動かしている。

 これほど激しく求めてくるということは・・・

 「左之助、左之っ! もういいから・・・いいから早く、来い・・・」

 「・・・剣・・・」

 「拙者も・・・お主と同じ思いだ。お主と同じくらい、左之助が欲しくてたまらぬよ・・・っ」

 「剣心・・・ッ」

 所詮、今宵は激しい雷雨。

 どんな睦言を唱えたところで、聞く者はただ、一人。

 左之助が激しく求めてくるのはきっと・・・同様に、自分のことも求めて欲しいという、願望の現れ。

 ならばいっそ、淫らなまでに左之助を求めてやれば・・・

 「くぅ・・・ッ、あぁ・・・ッ!」

 左之助と一つになった瞬間、剣心の予測はほぼ、当たっていたことを確信した。

 「んっ、ああぁ、左之ッ、もっと・・・奥まで・・・っ」

 「剣心・・・剣心! おめぇと一つに・・・一つに、なりてぇ・・・っ」

 「左・・・?」

 「もう・・・あの頃に戻りたくはねぇッ。おめぇがいなけりゃ、おめぇが生きてなけりゃ意味がねぇ! 

俺は・・・おめぇが居るから・・・何だって出来る気がするんだ。おめぇが居なけりゃ・・・会わなけりゃ、

今の俺は居ねぇ。俺は・・・ッ!」

 ・・・あの時。

 剣心が全力で叩き伏せてくれたから、自分は奥深い闇から、泥から脱することが出来た。

 出口を見つけることが出来た。

 そして、新たなる道をも示唆してくれた・・・

 剣心が居なければ・・・

 剣心に会わなければ、今の自分など存在しなかった。

 すべては・・・「剣心」が居たから・・・

 剣心が居たから、今の自分が居る!

 剣心無くしては、自らの存在意義などない!

 何を成そうと、何を遂げようと、「剣心」がいなければ・・・

 「おめぇがいなけりゃ、始まるもんも始まらねぇのよ。おめぇの眼がしっかりと、見届けてくれなきゃよ

ぉ・・・ッ!」

 「左っ・・・!」

 二つの肉体が、最高潮の熱を帯びた瞬間、

 ゴゴォォン・・・ッ

 東京の天空を、巨大な光の龍が舞った。

 龍の雄叫びは容易く、

 剣心の嬌声をうち消し・・・

 直後、

 薄い胸乳の上へと崩れ込んできた左之助を、

 剣心は怠くなった両腕でしっかりと、抱きすくめた。

 心を弱くさせた、怯えた、寂しがり屋の左之助など初めて見たが・・・

 「左之・・・拙者はここにいる・・・お主を見つめている、見据えている・・・お主がどこへ行こうとも、

拙者だけは、必ず・・・」

 ・・・雷鳴は、激しさを増し。

 天空の龍も、自由を得たりと暴れ回る。

 叩き伏せるかのような雨足は、

 長屋の一室、闇夜の中、

 互いに互いを抱きすくめる一組の情人など歯牙にもかけず、

 すべての現実から、隔離していく・・・

 二人の切なる思いなど、くだらぬと嘲笑するかのように・・・

 

 

 

 

 

<紫陽花/花室>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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