幸福の在処(ありか)

 

一、

 秋晴れの午後、目にも鮮やかな緋色の髪を風になびかせて歩いているのは、神谷道場の居候、緋

村剣心である。

 居候と呼ぶにはあまりにもその役目は多すぎるが・・・なにしろ、炊事、洗濯、掃除、買い出し、家屋

の修理に至るまで。そのどれもが文句のつけようのないほどのできばえなのである。

 驚くべきことは始めから何もかもが上手かったわけではないということだ。

 以前は、酢のききすぎた酢の物を出して(これは味見のしすぎである)、薫と弥彦は目を白黒させた

こともあったし、薫の上等な絹の肌襦袢を木綿と同じように洗濯して、泣かれてしまったこともある。

(好きな男に自分の下着を洗わせる薫も薫だが・・・)

 それが、一月も経たぬうちにめきめきと上達した。今では、そんじょそこらの御新造さんでは比べ物

にならない。

 宿代、食事代を払っているつもりならば、すでに一年先まで前払い済みという所であろう。

 それはさておき。

 今日も肩に味噌、醤油をぶら下げた棒を担いで、てくてくと歩いている。

 その小柄な身体を見て、気の良さそうな若い衆が手伝おうかと声をかけるのを丁重に断っている姿も

時折見かけられる。純粋に好意だけだけではない輩もいるのが困りものなのだが、長いことこの姿で生

きてきたので慣れてしまい、周りが心配するほど本人は気にしていない。第一、男には毛ほども興味

がないのだから、「物好きな」としか思わないらしい。

「後は油揚げでござるな」

 確かこの角を曲がって・・・と裏通りに入った途端、剣心の足が止まった。

 見慣れた印半纏が目に入ったからだ。

「左・・・」

 呼びかけようとして思わず口を押さえた。連れの女性と、何やら深刻そうに話している。

 見かけたことのある顔だった。一月ほど前に、左之助に引っ張られて深川の料亭に行った時、廊下

で見かけた芸者だ。あの時、左之助がすれ違いざま、にやりと笑っていたのは顔見知りだったからか。

 邪魔をしてはいけないと思い、別の店へ行こうとした時、左之助が女の肩を抱いた。

 剣心は金縛りにあったように動けなくなった。呼吸すら止まっている。身体の先から体温が奪われて

いた。じっとりと汗が滲んで、寒気が襲ってくる。めまいがするのは酸欠のせいか。

 左之助は剣心に気づかず、女を連れてさらに裏通りへと消えていった。

 それでも剣心はそこから動けなかった。

 

二、

「あら、今日も左之助いないのね」

 稽古を終え、風呂に入ってきた薫が食卓を覗きながら言う。

「忙しいのでござろう。左之にも色々と付き合いがあるのでござるよ」

 あの日からもう三日だ。あの女性となにかあったのだろうと剣心は思った。

(それなら拙者の所へ来ている暇などないのだろうな・・・・)

「あの大食らいがいないと、ご飯あまっちゃうのよねぇ」

 憎まれ口を叩いてはいるが、薫なりに左之助を心配としているのが感じ取れて微笑ましい。

「余ってしまった分はおむすびにしておくでござるよ。弥彦も来たでござるな。では、食事にしよう」

 風呂場からこちらへ向かってくる弥彦の足音を聞きながら、剣心はひつの蓋を開けた。三人ではと

ても食べきれない量の飯を見て、剣心はわずかに目を細め、明日からは左之助の分を炊くのをやめな

ければ、と思った。

 

三、

 翌日の昼前、左之助の長屋の前で剣心は途方に暮れていた。

 左之助は、留守だった。

 それならば手紙をつけて、持ってきた弁当を置いていけば良いのだ。

 頭で分かっているにだが、それでは気が済まない。

 剣心はここへ来るのに恐ろしく悩んだ。昨夜は布団の中で、あれこれと訪ねる口実を考えていたの

で、すっかり寝不足である。単純に弁当を持っていく、という案がなかなか浮かんでこなかったのだ。

 そう決めると剣心はいつもより早く起き出し、台所で左之助の好きなものを作り、それは会心作となっ

た。

(それなのに留守とは・・・)

 剣心は深い深い溜息をついて、手紙を書こうと袷から筆を取り出そうとした時、いきなり戸が開いた。

 土間に立ったままだった剣心は、飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。

 見上げるほどの長身、強い光を持つ切れ長の瞳、通った鼻筋、そして全身から放たれる”気”。

(左之助はこんな男だったろうか?)

「おいおい、人の気を読むのが十八番の剣客が気づかなかったのか?」

 そんなに見開くと落ちるぜ、目ん玉、と、からかい調子で笑われてしまった。

 考え事をしていて・・・と剣心は曖昧に言って、急に気恥ずかしくなってしまった。

 おもむろに、弁当の入った風呂敷包みを差し出し、

「お主がしばらく道場に来なかったから、ちょっと寄ってみたんでござるよ。これはお昼にでも食べてく

れ。・・・元気そうで安心したよ。・・・じゃ、拙者はこれで」

 そのまま帰ろうとする剣心に、今度は左之助が慌てた。

「おい、もう帰るんか?来たばっかじゃねえか」

「さっ、左之!」

 珍しくせっぱつまった剣心の声に、はっと気づくと左之助は剣心の二の腕をわしづかみにしていた。

「わ、悪い!」

 よほど強く掴んでしまったらしく、剣心は二の腕をさすることもできずに、ただ押さえている。

 左之助は慌てまくって、剣心の周りをぐるぐるしながら、これまた剣心に指一本触れられない。

「すまねぇっ、剣心。掴むつもりはなかったんだけどよぅ、おめぇがすぐに帰るなんて言うからあせっちま

ったんだ。すまねぇ」

「だ、大丈夫でござるよ、左之」

 まだ腕が痺れている様子の剣心が左之助に向き直り、気にするな、と微笑む。しかし、

「口より先に手が出るのは俺の悪い性分だ、謝る」

 左之助は剣心の気持ちに甘えることなく、きっぱりと頭を下げた。

 何という男だろう。負けん気が強くて意地っ張りは反面、自分に非があれば正面から認めて、頭を下

げることができる。それは、とても勇気がいることだと、剣心は経験から知っている。

(もしかすると左之助は拙者が思っているより大人なのかもしれない)

 一緒に昼飯を食おうと言う左之助に背中を押されて、剣心は部屋へと上がった。

 戸を開けた時にも思ったのだが、左之助の部屋はずいぶんとすっきりしている。男の独り暮らしなら

ばさぞかし・・・・と思っていたが、拍子抜けしてしまったくらいだ。

 あまり物を置かない性格らしく、あっても煙草盆くらいだ。身軽が一番の流浪人のじぶんならともか

く、もうここに何年も住んでいる左之助が意外だった。

 しかし、ここには確かに左之助の匂いがあった。そんなことに気づき、いつの間に自分は左之助の

匂いなど覚えてしまったのかと不思議に思った。人斬りをしていた時代、知らず知らずのうちに五感が

研ぎ澄まされていったのかもしれない、と剣心は記憶をたぐり寄せていた。

 そんな不穏な空気をかぎ取ったのか、左之助は剣心の前にわざと乱暴に茶を置いた。

 風呂敷から弁当を取り出そうとしていた剣心は、再び目を見開いた。

「食おうぜ、剣心」

 そのまま、にっと不敵に笑い、箸を手渡す。

 本当に鋭い男でござるな・・・と剣心は胸の中で呟いた。これまでも、こうやって左之助に救われて

いたのではないか、と初めて気づく。

「いつもの大食らいが居ないから、飯が余って困ると薫殿が心配していたぞ」

 にこにこと笑う剣心に左之助は複雑そうな表情をして、

「そりゃあ、俺じゃなくって飯の心配だな?」

 と言うのを剣心は慌てて否定した。

「いや、拙者の言い方がまずかったな。薫殿は確かにお主のことを案じておったよ。飯が無駄になっ

てしまうのも困るが、お主が飢え死にしているのではないかと言いたかったのでござるよ」

 フォローになっているのかいないのか。大の男が飢え死にの心配をされるなど、ますます眉間にし

わの寄る思いだったが、今はそんなことよりも空腹を満たすのが先と、左之助は弁当の蓋を開けた。

「おっ、こりゃお前ぇが作ったな?」

 二段重ねの重箱の一段目のおかずを見て、左之助は子供のように目を輝かせた。

 つやつやとした黄金色のかぼちゃの煮物と茄子の田楽、あじを三杯酢につけたもの、もみじ色の明

太子まである。そして左之助が何より喜んだのは、二段目のくりご飯だった。

「豪勢じゃねえか、なんかあったのか?」

 嬉々としてくりご飯に手を伸ばす左之助に、剣心は少し大袈裟だったかと後悔した。

「たまたまくりがあったのでな。左之の好物とは知らなかったよ」

 と、とぼけてみせたが、ずいぶん前に左之助がどこそこで食べたくりご飯がめっぽううまかった、と言

っていたのをはっきりと覚えていた。

 そして、弁当を持っていこうと決めて、真っ先にこのくりご飯が目に浮かんだ。このくりは、となりの奥

方が親戚からたくさんいただいたので、とおすそわけしてくれたのだ。これは何より、と台所で一人、

剣心はとなりの奥方だけでなく、そのご親戚にも手を合わせて感謝した。

 かぼちゃは朝からこつこつと煮た。三杯酢の割合がよくわからなかったので何度も味見して気分が

悪くなってしまった。それでも、過去の失敗作第一位の酢の物の二の舞は踏まずに済み、味に敏感

な弥彦に太鼓判を押してもらえた。

 そこまで苦心して作ったので、かえって照れくさくてごまかしてしまった。

「味はどうでござるか?」

 いつも以上に箸の進みの早い左之助を見れば、何を聞くか、と筆者などは突っ込みをいれたくなる

のだが、当人は真剣らしい。

 対する左之助もわざわざ剣心の目を見て、

「ああ、すっげぇうまいぜ。この田楽なんざ絶品だな」

 手が痒くなるのをこらえて、あく抜きをした茄子を誉められて、思わず剣心は破顔した。 

 たとえ本人達にその気がないとしても、見ているこちらは「ごちそぉさまぁ!」と言いたくなるような甘

い光景である。

「料理上手って評判の小間物屋のお美代も真っ青だな」

 しかし、いきなり飛び出した小町娘の名前に、剣心は憮然とした。

「お美代はさぁ、なかなかのべっぴんだぜ。目は鈴を張ったいてぇにきらきらしてっし、色は白いし、

気立てはいいし。大人しいくせしてしっかり者なんだぜぇ、これが」

 妙にはしゃいでいる左之助とは正反対に、剣心はますます沈んでいく。

(恋人の自慢でござるか・・・・)

「今度、紹介してやるよ。むこうさんもまんざらじゃねえんだぜ、おめぇのこと」

 てっきり左之助ののろけだと思っていた剣心は仰天した。なぜ、そこで自分の名前が出るのだっ?

「ど、どうしてでござるか?」

 動転してしまった剣心は、箸から明太子が転がっていったことに気がつかない。

「え、だからお美代は良い娘だから、付き合ってみねぇかって言ってんだよ」

「・・・・・・・・・・拙者に、妻を持てと・・・・?」

 じっ、と左之助を見つめながら剣心は低い声で聞いた。

「ああ。・・・・考えてみねぇか?」

 ふいっとその視線から逃げた左之助の顔を、剣心はしばらく無言で見つめ、にっ、と笑った。

「左之賀宴結びに興味があったとは意外でござるなぁ」

 言いながら懐から紙を取り出し、落としてしまった明太子を包む。その指先が微かに震えているのを

左之助は気づかなかった。

 結局、その後も左之助ははぐらかされっぱなしで、剣心の見合い話は保留となった。

 

四、

 その夜。

 剣心は離れの自室で布団にくるまっていた。

 頭の中はグチャグチャで、寝不足にためにもうろうとしていて、目が痛んだ。

 こんな時はろくなことを考えないと決まっているので、懸命に眠ろうとしていた。

 しかし、重いはずの瞼はまばたきの仕方すら忘れてしまったかのように動かず、剣心はじっと空中を

見つめていた。

 そこには闇だけがあり、目には何も映ってはいないのに、剣心は左之助の姿が見えていた。

 剣心は以前から、左之助ならば恋人がいて当然だと思っていた。 

 あれだけの男振りだ。おまけに、喧嘩屋を廃業してからは幾らか近づきやすくなったのか、「今まで

憧れていました」という告白劇があちこちで繰り広げられている。剣心が一緒にいる時だけでも、かな

りの数であった。

 しかし、一向に左之助が承知したという話を聞かないので、これはどこぞに心に決めた女性がいる

な、と思っていたのだ。

 剣心自身もあの年頃には妻を持った経験があった。

 だから、左之助の大事な人に会えるのを、ほとんど楽しみにしていたと言っても良い。

 それなのに。

 なぜ、あの日左之助が女性の肩を抱いたというだけで、心も体も石になってしまったのか。なぜ、し

ばらく左之助に会っていないというだけで、しきりにため息が出たのか。

 もう、自分の胸に訊いてみるまでもない。答えはあの時に出た。

 左之助に女性を紹介してやると言われた時。冷水を浴びせられたように身がすくんだ。

 剣心は、左之助の幻をかき消すように、手の甲で両目を覆った。

「思い出したくない・・・・・・もう・・・やめてくてれ・・・・」

 誰に向けるでもなく、呟きがもれた。

 だが、常の冷静さを失った思考は暴走してゆく。やがて、自虐的に。

 自分は左之助にとって、そういう対象ではないのだ。それだけではない。自分が他の誰かのものに

なってしまっても、左之助は平気なのだ。家庭を持ち、妻や子が何より大事と、自分が考えるようにな

ってしまっても構わないのだ。左之助は自分に、露ほども独占欲など抱いてはいないのだ・・・・・・・。

 十年前、何も持たないと決めた。自分は他人から数々のものを奪ったのだから、もう何一つ望んで

はいけないと思った。

 それが、今は。左之助を、欲しいと思っている。女性の肌を求める感覚とは違う気がするが、確かに

彼に触れたいのだ。男にそんな感情を持ったことなど初めてだった。

 その肌に、髪に、指に、唇に、心に。この体と心で、触れたかった。触れてほしかった

 剣心は、掠れた声で小さく笑った。

「何も望まないなどと・・・お笑いでござるな。拙者はあの男を渇望している。あの・・・・日の光に似合う

青年を・・・・・・・望んでいる・・・・・愛されたい、と・・・・ッ」

 滑稽でござる、と言って剣心は頭まで布団をかぶった。

 まるで、怖いものから逃れようとする、子供のように。

 

五、

 

 それからさらに数日。

 睡眠不足は慢性化している。顔色の悪い剣心を気遣い、薫や弥彦がいつも以上に家事を手伝うと

言うのを、稽古の妨げになるからと、と制して今日も買い出しに出かけた。

 米屋ののれんをくぐろうとした途端に、名前を呼ばれた。

 声の方を見ると、営業用スマイルと目が合う。

「久しいでござるな、三次殿」

 左之助の友人で、この米屋の奉公人である。(左之助にも堅気の友人がいるのである)

 もう仕事を終えたのか、米印の入った前掛け姿ではない。

「ここんとこ米の減りが悪いっスねえ」

 わはははっと明るく笑って、軽口を叩く。剣心は三次の、こんな気安いところを気に入っていた。

「拙者と同じただ飯食らいが、最近来ぬのでな」

「左之助さんなら、ここんとこ、小夏姐さんのとこですぜ」

「おう、良太じゃねぇか。あ、緋村さん、こいつ、ひさご屋さんって酒屋の大店で用心棒してる、良太っ

てんです」

「どうも、横から口挟んじまってすんません」

「緋村剣心と申す。お初にお目にかかる」

 と、毅然とあいさつをしてはいるが、実は良太の言った「小夏姐さん」という言葉に、胸をかきむしら

んばかりに動揺していた。

 そんなこととは露知らず、良太は思いがけない丁重な言葉に、あわてて頭を下げた。その拍子に

自分のだらしなく開いた袷に気づき、ゴホッろ一つせきばらいをして、きっちりと直す。

 用心棒などしている割には、なかなか礼儀正しいのだ。もちろん、相手にもよるが。

 三次は剣心に米の量を尋ねると店に飛び込み、十秒後には米を抱えて舞い戻ってきた。

 帰ってまきわりをしなければ・・・・と思いながらも、話の続きを欲して、二人に誘われるまま、剣心は

近くの甘味屋に入った。

「ところで、小夏殿・・・とは?」

 焦りのあまり、顔がこわばってしまいそうで、剣心はつとめてにこにこと笑った。そのサービス過剰な

笑顔をまともに向けられた日には、老若男女問わず、骨抜きになること請け合いである。

 早速、くらげになってしまった良太は、ほほを染めながら(オイオイ)立て板に水のごとく、しゃべりだ

した。

「『松乃屋』って料亭の芸者なんですけどね、これが深川でも五本の指に入るって程のべっぴんなん

ですよ。歳は二十三。背がちぃっとばっか高すぎるのが玉に傷なんですけど、三味線を持たせりゃそ

こいらのおっ師匠さんなんぞ裸足で逃げ出す腕前だし、小唄を唄えば、つん、と突き出た唇が色っぽ

いって大受け。そんで、これがまた気がつえぇのなんのって。この間もどっかのいけすかねえ客が金

を積んで身請けしようとしたら、扇子投げつけたっつって、すげぇ評判なんですよ」

 剣心はものも言わずに良太の言葉を聞いていたが(実際に、口を挟む隙間はなかったが)あの時の

女性だ、と確信した。なぜ左之助がそんな売れっ妓と親しいのか。喧嘩屋をやめて、料亭に通える

程の金を持っているとは思えないが。とすれば、間夫か。

 自分の思いつきに、不覚にも血の気が引いてしまった剣心だが、その後の三次の言葉で卒倒寸前

にまで追い込まれる。

「二年くらい前だったか?小夏姐さんと左之助さんが恋仲だたのって」

「そうそう、あんときゃ、左之助さん大荒れだったよな。姐さんに見受け話が来るたんびに、いつもなら

引き受けねぇような喧嘩までしちまってよ」

「芸者にゃ、そんなおっかねえイロがいちゃあまずいってんで、別れたんだよな」

「それがよ、最近になって一緒に歩いてんの、しょっちゅう見かけんだよな。しかも、店にまでついてっ

てるんで、こりゃ、より戻ったんじゃねえかって巷じゃ噂よぉ」

「良かったじゃねぇか。いいねぇ、俺も姐さんみてぇな餅肌と朝までしっぽりいきたいね」

「おいおい、おめぇじゃ四半時もかかんねぇんじゃねぇのか?」

 餅肌と知っているのは、巷の評判か、それとも左之助から聞いたのか。だとすれば、鼻の下をだらっ

と伸ばして自慢したのか。剣心はぎり・・・・と歯がみしながらも、仮面のような笑みをうかべたままだ。

器用である。

 押し黙ったままの剣心に、どうかしましたか?と若者達の純朴な目が向けられる。

「いや、左之も艶事で忙しいのでござるなぁ。これでは道場で飯を食べる暇などないはずだ」

 げらげらと笑う二人を横目で見ながら、剣心は黒みつを口に放り混込んだ。まずい。甘味が喉にまと

わりついて、ムカムカした。それは、決して黒みつのせいではなかったのだが。

 

六、

 その晩遅く、深川の料亭「松乃屋」の一室。売れっ妓芸者小夏の自室である。

 左之助はそこで振る舞われた酒で、すでにほろ酔い気分だ。

 彼も若い男だからして、美女の酌で飲む酒は当然うまい。それが浅からぬ縁の女とくれば、艶っぽ

い雰囲気が漂い、まさに甘露の味である。

 その側では小夏が一糸纏わぬ姿で・・・どころか、濡れ羽色の髪をきっちりと結ったまま、裾一つ乱

していない。

 左之助は上機嫌で小夏の杯に酒を注いでやる。

「あのおやじも大人しくなったみてぇだな」

「ええ、左之助さんのおかげでござんすよ。さすがですねぇ」

「それにしてもあっけねぇな。もうひと暴れしたかったぜ」

「芸者にかまってる場合じゃなくなったんでしょ。二、三日前に大きな失敗をしちまって、『大井屋』は

もう危ないってもっぱらの噂でござんすからねぇ。奉公人もばたばたとやめちまったそうでござんすよ」

 良太の言っていた「いけすかねぇ客」とは、かつての大店「大井屋」の主人のことであった。小夏に

恥をかかされてから、ごろつきを雇っていやがらせをしていたのだ。

 十日程前に、その現場をたまたま見かけた左之助が、ごろつきを痛めつけて追い払ったのだが、そ

れからも面倒なことが続くので、しばらく「松乃屋」に出入りしてくれと、主人自ら頭を下げてきた。元

『喧嘩屋斬左』が小夏の情人として、店にまで出入りしているとなれば、うかうかと手は出せない。そ

のうちに諦めるだろう、という算段だった。

「悪名高き『喧嘩屋斬左』が人様の役に立つとはね。ま、そのおかげでこうやって旨い酒と肴にありつ

けるんだからありがてぇこった」

「でも、巷じゃすっかりあたしの情人って事になっちまって・・・・すみませんねぇ、左之助さん。良太さ

んや修さんにも内緒にしてるんですかい?」

「まぁな。・・・人の口にゃ戸は立てらんねぇからな。気にすんなよ」

 つまみの小鉢をつつきながら、何でもない事のように言う。左之助は小夏に甘い。恋仲だったのは

昔の事とはいえ、大事な存在である事は変わりはない。痴話喧嘩という名の修羅場を幾度となく潜り

抜けてきたので、互いに戦友のような思いもある。

「三味のおっ師匠さんとは相変わらずか?」

「ええ、大事にしてもらってまさぁね」

 赫い唇をほんのりと開き、頬を染める様はまるで少女のようだ。

 とても昔、左之助に浮気の容疑がかかるたびに、かんざしを振りかざして飛びかかってきた女と同一

人物とは思えなかった。

「・・・自分が目が不自由なばっかりに、左之助さんに迷惑をかけちまってお詫びのしようもないっ

て・・・」

「おいおい、頭なんか下げてくれるねぇ。俺ぁ、ちぃっとばっかし睨みきかせて、うろうろしてるだけだ

ぜ?」

「そのおかげで『松乃屋』はどれだけ助かってるかわかりゃしませんよ。本当に感謝してるんでござん

すよ。長いこと左之助さんを独り占めしちまって、恋人に怒られちまいそうでござんすけどねぇ」

 ころころと笑いながら、銚子を差し出す。

 しかし、左之助は苦虫を噛みつぶしたような顔をして、手の中の杯をにらんでいる。

 小夏はすぐさまピンと来た。

 長い間、花柳界に身を置いているだけあり、人の心の機微にめっぽう鋭い。特に色恋には。うつむ

きながらも律儀に返杯をしてくる左之助に応えながら、ふと意地悪心が湧いてきた。

「相楽の旦那」

 突然、改まって声をかける小夏に嫌な予感がしたのか、左之助はかすかに眉根を寄せただけで、

顔を上げようとしない。

「緋村様に嫌われでもしたんですかい?」

 ごとん。空の銚子が転がり落ちる。異様にゆっくりと頭を上げて、見つめてくる左之助に、小夏は急

に不安になる。笑えるような事情ではないのだろうか?

「・・な・・・なん・・・・」

「なんでって左之助さん、見てりゃわかりますよ」

「俺、何も言ってねぇよな・・・?」

 今だに銚子を持っていた時の手のまま固まってしまっている左之助に、小夏は憂いをふくんだ優し

い眼差しを向ける。

「左之助さんはなあんにも言ってませんけどね、『忍ぶれど、色に出にけり・・・』と言うじゃあござんせ

んか。まあ、左之助さんが『忍ぶ恋』だなんぞまさか、と思いましたがね」

 小夏の言葉は耳に痛いらしく、左之助はやけくそのように酒を飲んでいる。手に持っているのは杯

ではなく、湯のみ茶碗だ。

「左之助さんったら、あたしと一緒に居る時だって緋村様の話ばかりじゃあござんせんか。そりゃあも

う、作ってくれた飯がうまかったと言っちゃあ御満悦で、破れた半纏を繕って貰った日にゃあにやけっ

ぱなしのふやけっぱなし。その上、緋村様をあごでこき使って勘弁ならねえと神谷のお嬢さんを小姑

呼ばわりしちまって。挙げ句、」

「まだあんのかっっっ」

「誰かれかまわず愛想を振りまく八方美人だと緋村様まで悪者にする始末。そんなんじゃあ、お釈迦

様が気づかなくっても、このあたしにゃ、すぐにわかっちまいますよ」

 左之助は首まで真っ赤に染まり、とても聞いていられないとばかりに湯のみの酒を一気飲みしてい

る。それを見ながら、小夏は姉のような顔つきになっていた。

「あたしでよければ相談に乗りまさぁね。とっくにイイ仲なんでしょ?それなのに左之助さんと恋仲だ

なんぞと噂がたっちまって、緋村様に申し訳がなかったんござんすよ。それにこう見えても、そっちの

道にゃあ、ちったあ理解があるつもりでさぁね。緋村様と喧嘩でもしなすったとか?」

 まるで子供にでも話しているかのゆな優しさで、静かに問う。

 左之助は突然真顔になり、小夏の方を見つめた。顔の赤みは消えていた。

「・・・あいつは、・・・・知らねぇんだ」

 はて?首を傾げた小夏だったが、意味が分かった瞬間、がばっと身を乗り出した。

「まさか左之助さんっ、あんた緋村様に何も言ってないんじゃないだろうねっっ!」

 勢いあまって、胸ぐらに掴みかかった小夏に、左之助は笑ってみせた。

 途端、小夏はペタリと座り込み、その顔を穴が空くほど見つめた。

 それは小夏が初めて見るねおそらく誰も見たことのない、穏やかで、淋しげで、諦めきった左之助

の笑顔だった。

 ここにいるのはもう、小夏の知っている左之助ではなかった。

 左之助は探るような目つきの小夏に杯を渡し、酒を注いでやる。

「俺じゃ、まずいんだ」

 絞り出すような声に、強い意志が伺える。再び湯のみを手にし酒で満たす。

「あいつは、独りなんだよ。家族ってもんがいねぇ。親代わりの師匠ってのはいるらしいんだが、そいつ

は京都の山奥に籠もってて、滅多な事じゃ会えねぇ。そりゃあ剣心はあんだけの男だ、言い寄る女は

一人や二人じゃねぇ。ムカつく事に男もすげぇ寄ってくる。しかも俺がちょいと睨んだだけで、しっぽ丸

めて逃げ出すような情けねぇ輩のくせに、気安く声なんぞかけやがって、あの野郎・・・・」

 すっかり自分の回想に浸ってしまっている左之助だった。ちなみに、剣心をナンパした男性陣の名

誉のために付け加えさせていただくが、「ちょいとにらんだ」などとかわいいものではなかった。不動

明王に勝るとも劣らぬ形相で、青筋立てて、斜め上から射殺さんばかりに眼つけをしたのである。帰

って血尿の出た者もいるかもしれない。

 わけのわからない左之助に、小夏は落ち着かせようと、もみじの絵の入った扇子で風を送ってやる。

せきをきったように話すのは、一人で思いを溜めていたからだろうと思った。

(・・・左之助さんも一人じゃあござんせんか)

「いつだったかな、木から下りられなくなっちまったガキがいてよ。剣心が木の下に行ったんで、俺ぇ

てっきり跳ぶもんだと思ったんだ。あ、あいつ、すげぇ身が軽くってよ、いっくらでも跳んじまうんだ。そ

れが何を思ったんだか、いきなり登り始めやがった。後で聞いたら、ガキががっかりするから、だと。自

分が懸命にしたことを、一瞬のうちにやっちまう奴を見れば、自分の努力が虚しくなっちまう・・・。ガキ

の頃の敗北感ってのもやっかいだからなぁ」

 左之助の脳裏に相楽総三斬首の光景がよみがえる。大きな悲しみを知っているからこそ、小さな悲

しみも理解できるのだ。

「礼言って笑うガキを見ながらさ、蕩けそうな顔してた。・・・・弥彦の相手してんの聞いててもわかんだ

けどさ、剣心は本当にガキが好きだ。ガキを通して未来を見つめんのが楽しいのかもしんねぇな。

・・・・・でもよ、それなら」

 突然、言葉を飲み込んでしまった左之助を、小夏は辛抱強く待つ。

「・・・・血のつながったガキだったら・・・・」

 小夏は、その言葉でようやく合点がいった。子供をもたせてやりたいから、男の自分が相手ではだ

めだ、と言っているのだ。

「でも・・・・・左之助さん・・・・・それで・・・・・」

「良いんだ、小夏。すまねぇな、こんな話聞かせちまって。俺が決めたことだから。勝手に惚れちまっ

て、勝手に諦めたんだ。・・・・あいつはさ、この十年間、一つ所に居たためしがねぇんだ。人と人との

繋がりってもんが薄い。そいつは『自由』なんて呼ばれてるもんなのかもしれねぇけど、剣心にとっちゃ

『孤独』以外の何物でもねぇ。・・・・女房とガキがいれば、もうどこへも行けねぇ。あったけぇ居場所が

できるんだ。あいつは、何も考えなくても帰れる場所を手に入れるんだ」

 言って、再び酒を流し込む。誰にも言わないはずだった気持ちを吐き出してしまったことが情けなく

て、また、飲む。すでに一升は過ぎていた。

「・・・・幸せに、してやりてぇんだ」

 全てはこの想いから始まったのだった。

 剣心に幸せになってほしい。

 「好き」とか「惚れた」とか「欲しい」とかいう自分の気持ちよりも、相手の幸せを望んだのは生まれて

初めてだった。この先も、きっとないだろう。剣心だけだ。

 そして、剣心を幸せにするために考えた。

 幸せとは、何なのだろう。

 その答えは、きっと人の数だけ存在するのだ。富や名声を手に入れることが幸せなら、そんなものと

は無縁に生きていくことも、また幸せなのだ。決まり事はない。

 しかし、大多数の人々が求める幸せの形とは、家庭である。それは自分が生まれ育った、父と母の

いる家庭だったり、結婚した男女が持つ家庭だったり、ただ単に好きあっている者同志が一緒に暮ら

しているとう、形のない家庭だったりする。

 生まれ育った家庭はもう無理だ。どうしてやることも出来ない。

 同棲というものは、安定がなさすぎである。妾ならば子を産めば、お互いの絆が深まるということもあ

るだろうが、男同士にはそういう確かな絆もなければ目的もない。あるのはただ、感情だけである。「愛

している」という想いだけが、お互いを繋いでいるのだ。

 左之助には「愛」だけで、剣心を繋いでおけるだけの自信がなかった。剣心を好きだという、この気

持ちは誰よりも強いと自負している。剣心になら、たとえ斬りきざまれたと、すっきりとした気分で、笑っ

て死んでいけるだろうと思う。・・・・いや、残った剣心が気がかりでちょっと化けて出るかもしれないが。

 自信がないのは、剣心が左之助に惚れてくれるかどうかだった。

 左之助にとっての剣心は、強くて、優しくて、寛大で、頭が切れる最高の男だ。千里眼かと思うよう

な鋭い”読み”をしてみせた時などは、手の届かない人物のように感じてしまうこともある。そんな男を

自分に惚れさせるなど、雲を掴むようなことだと思った。

 そもそも剣心は男色家ではない。わざわざ人の道に外れた所に誘うことは出来るわけがないし、こ

れ以上、剣心に悩み事を抱え込ませることも避けたかった。

「だから、かわいくって、気持ちのあったけぇ女を探してきては会わせようとしてんだけどさ、これがな

かなか・・・・・な。この間、やっとの思いで切り出したらかわされちまったよ」

 ははっ、と力なく笑う左之助に、小夏は銚子を傾ける。

 その手が震えているのに気づき、左之助がその顔を覗き込もうとした途端、ガシャン、と銚子を膳に

置き、小夏は襟の合わせから薄布に包んだ、平たいものを取り出した。

「おっ師匠さまから頂いたばちだよ。滅多なことじゃ使わないんだけどさ、特別にこれで一曲演ってあ

げるよっ」

 私生活でも芸者言葉が抜けない小夏の、威勢のいい下町言葉に一瞬目を丸くした左之助だった

が、おそらく小夏にとっての最高の慰めなのだろうと思い、深く頭を下げた。

「・・・・俺ぁもしかしたら不幸なのかもしんねぇ。でもな、剣心が心の底から安心して笑ってくれたら、

なんにもいらねぇって思う」

 だから、これは俺のわがままなんだ、と静かに笑う左之助に、小夏も笑いかける。

「ばかだねぇ。本当にもう・・・・。お人好しにもほどがあるよ。どうせあたしが何言っても聞いちゃくれな

いんだろ?これ聞いたらとっとと寝ちまいな」

「そうすっかな。・・・・ありがとよ」

 「本当に・・・ばかだよ。でもね・・・・そんなあんたに惚れてて、あたしゃ幸せだったよ」

 秋の冷たい空気の中を、三味線の音はどこまでも流れていく。

 しかし、それは未だ眠れずにいる剣心の耳に届くことはなかった。

 

 

 

次ページ/紫陽花

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送