七、

 剣心は厨房で夕飯の支度をしていた。

 薫と弥彦は出稽古に行っていて、そろそろ帰ってくるはずだ。

 以前はこの束の間の静けさを楽しんでいた剣心だったが、近頃は沈黙が恐ろしかった。

 左之助の足音が聞こえてこないかと耳をすましている。剣心は音よりも気配の方に敏感なので、猫が

通りかかっても手を止め、息を殺して音を待つ。

 買い出しに出かけても同様だった。全身で左之助を探している。それなのに左之助の行き付けの店

の前を通る時は、足早に立ち去ってしまうのだ。

 会いたいのか、会いたくないのか。

 どちらだと問われれば、「会いたくない」と答えるだろう。

 左之助に会うのが恐い。自分のことを友人として映す目が恐かった。左之助の言葉も恐い。小夏のこ

とを話すかもしれない。俺の恋人を紹介する、と言って連れてくるかもしれない。その時自分は、正気

でいられるだろうか・・・?

 知らず、包丁を握る手に力がこもった。剣心は手にしているものを見つめる。

 この手は刃物を扱うことに慣れている。そして、その手に握られている包丁は凶器にしか見えなかっ

た。

 たった一振りで喉笛を切り裂き、左之助は事切れる。何も映さなくなる二つの黒い玉。ただ転がって

いるだけの、肉塊。そうなれば、誰にも左之助を奪われることはない。

 ふいに血の色を見たい衝動に駆られ、剣心は左の人差し指に刃を当て、手前に引いた。浅い傷は

たいして出血もせず、わずかな痺れを招いただけだった。

 剣心は包丁から手を放し、昼過ぎに水汲みをしたために、まだたっぷりと満たされている水瓶にざば

っと両手を突っ込んだ。

 わずかにはねた水が頬の十字傷へ届く。あるはずのない痛みが走った。

(・・・・何をしようというのだ)

 剣心は、己の中の何かに向かって話しかける。それは自分なのか、他人なのか。少なくとも流浪人

の剣心ではなかった。ましてや人斬り抜刀斎でも、ない。

 一瞬でも血を望んだ自分に下唾が出そうだった。こんないやしい自分が人の温もりを望んでいるなど

と、浅ましいにも程がある。

 たとえ左之助を殺したとしても、自分のものになるわけではないことはわかっている。死んでしまった

人間は、誰のものでもない。この世の全てから去っていってしまうだけだ。肉体はやがて滅び、魂は存

在しなくなるのだから。

 濡れた傷口からはゆるゆると血が流れ出し、水瓶の中は赤く濁っていた。

「・・・・・汚してしまったな」

 剣心は無表情のまま両手を引き上げると、目だけで手拭いを探した。

 その時。

 左之助が、来た。

 気配が届く。足音がする。戸が聞こえる。門が開く。血が騒ぎだした。

 人差し指に鋭い痛みを感じて、剣心は今の自分の状況がみんなに不審に思われるであろうことに気

づいた。いつもならばとっくに夕飯の用意はできている時間に、指から血を流し、水瓶にはその血が浮

いている。水汲みをしたばかりの水を血で台無しにしてしまうなど、言い訳はできない。

 浅はかな自分を叱りながら、剣心は水を捨ててしまおうと水瓶を外に出し、横に倒した。

「剣しーん、遅くなっちゃって・・・・・あらっ、どうしたの?」

 稽古着の薫が驚いて走ってくる。

「ああ、その、蓋をするのを忘れていて、水瓶の中に虫が飛び込んでしまったのでござる」

「しょうがねぇなぁ、俺が汲み直してやるよ、剣心」

「ありがとう、弥彦。だが、風呂炊きの方を頼めるでござるか?少し冷めてしまったかもしれないのでな。

さ、薫殿もここは良いでござるよ」

「そう?じゃ、左之助あんた水汲みしてあげてよね」

 いきなり話題を左之助に向けた薫に、剣心は慌てて言いつのる。

「いっ、良い出ござるよ、薫殿っ」

「何遠慮してんだよ、剣心。こき使ってやれば?いつも旨いもの食わせてやってんだから。しっかりや

れよ、左之助」

 そのまま行ってしまう二人を目で追っていたが、このまま左之助を避けているのも大人げないと思い、

剣心は水瓶を起こしながら、言葉を探した。

「久しぶりでござるな、左之」

 言ってしまってから、長屋に弁当を届けた日から七日程しか経っていないことに思い当たった。以前

は二日と開けずに会っていったとはいえ、ずっと左之助を待ち続けていたようで(待っていたのだが)

情けない。もう、何がなんでも一人になりたくなた。

「水汲みは拙者がするから、左之はあちらでお茶でも飲んでいるでござるよ」

 しかし左之助は右手を差し出し、

「手」

「は?」

「左手。血ぃ出てっぞ。見せてみろ」

 言うが早いか、左之助は剣心の左手を掴み、傷に触れないよう、そっと人差し指に手を添えた。いつ

もの左之助からは想像もできない程の繊細な仕草である。

「・・・思ったより浅いな。だらだら血ぃ流してっから心配したぜ」

「心配・・・・?」

「おう。嬢ちゃん達は気づかなかったみたいだけどな。おめぇ、隠すのうめぇから」

 冗談まじりに笑って、薬箱を取ってくる、と言って左之助は厨房から出ていった。

 残された剣心はとうと・・・・。

「・・・そうか・・・・心配・・・・してくれるのだな・・・・」

 剣心は人差し指を見つめ、静かに微笑む。切なく、優しい気持ちだった。

 左之助は包帯がない、と言って新品の手拭いを切り裂いて戻り、青くさせられるまで、剣心はずっと

人差し指に触れていた。

 結局、、水汲みは左之助がしてくれた。

 

八、

 久しぶりに四人揃って食事をとった。

 剣心が後片づけをしに弥彦と厨房へ消えると、薫が左之助に声をひそめて言った。

「ねぇ、左之助。剣心がこの頃おかしいのよ」

 何より大事な剣心がおかしいと聞いて、食後の至福の一服である煙管を打ち捨てて、左之助は薫に

にじり寄った。灰が落ちたと薫がわめくので、すぐに拾ったが。

「おかしいって、何かあったのかっ?またうさんくせぇ野郎が現れやがったとかか?」

「ううん、そんなんじゃないと思うわ。買い出しに行くほかはずっと家にいるし。ただね、あんまり寝てない

みたいなの。夜中に庭を歩いてるのを弥彦が何度も見てるのよ、厠へ行く時に。それに食も細くなっち

ゃって・・・・時々暗い顔で考え事してるし・・・」

「そういや、この間俺んちで飯食った時も食欲なかったみてえだったな。ま、あんま食う方じゃねぇけど

よ、剣心は。嬢ちゃんの方が食ってるよな、いつも」

「そんな事どうでもいいでしょ!そうだわ、あんたの家に行った日からよっ、剣心が元気なくなったの!

何か変な事したんじゃないでしょうねっっっ!」

「んな訳あるかっ!」

(変な事どころかイイ事だってできねぇってのに・・・・)

 世間一般ではそれを変な事という。

 ムキになる薫につられて左之助も声高になっていた。剣心に聞かれないようにと思って小声で話だ

したというのに、すでにいつも通りのけんか腰。我に返った薫が、左之助の口に煙管を突っ込んで黙ら

せた。この時左之助は、薫の嫁入りは遠いことを確信した。

「とにかく。左之助も協力してよ」

 左之助の鼻の先に人差し指をぴっと立てて、上目遣いににらむ様はなかなかに愛らしい。これでもう

少ししとやかならば、かなりの美少女に見えるはずなのだが・・・・。実際はがさつの一言に尽きるのだ

から、死んだ母親は草葉の影で泣いていることであろう。

「俺に何しろってんだよ?言っとっけど、ぱーっと芸者遊び、なんて金はねぇぞ」

「そんな所に剣心行かせないわよっ!・・・・でもまぁ、お酒っていうのは当たりよ。酔うと開放的になるっ

て言うでしょ?私達じゃ相手はできないから、あんたが来るのを待ってたのよ。お酒と場所は提供する

から、何とか剣心を元気づけてあげてちょうだい、左之助」

 そう言うと、薫は用意してあった大徳利を二つ出してきた。

「余ったらちゃんと栓しておいてよね

「・・・・・・・・余ったら、な・・・・・・」

 左之助もかなりいける口だが、剣心はその上をいくことを薫は知らなかった。

 

九、

 薫と弥彦が寝静まった後、縁側に影が二つ残った。

 二人とも黙々と酒を口に運んでいるが、心の中には嵐が吹き荒れていた。

 相手の一挙一動に身を強張らせながら、それでも離れがたい思いが強い。だから、さして多くもない

量の酒を(この二人にとってだが)無くならないように加減して飲んでいる。

 左之助は剣心の杯に酒を注ぎながら、その指に見とれていた。

 剣を持つ指なので、いかにも固そうな印象を受けるのだが、ほんのわずかでも動かせば、流れるよう

にしなやかだ。こうやって杯を支えているところなど、いっそそのままで、と言いたくなる程美しかった。

剣心に酌をしてもらえば、銚子を握る手が色っぽくて、また心が騒ぐ。

 左之助にとって剣心は、完成された芸術品のように思えた。

「・・・・左之」

 左之助はうつむいたまま、ぼーっとしていた。剣心の姿もほれぼれとするが、この声がまた良い。こう

やっ名前を呼ばれると、胸の奥が淡く色付くような、不思議な響きがある。もっと呼んでほしいと思った。

「左之」と・・・・・

「左之」

「あ?うわっ、どうした剣心っ!」

 目の焦点を合わせた途端、自分の顔を覗き込んでいる剣心と目が合った。しかも再び名を呼ばれ、

自分の願望が伝わってしまったかと焦りまくる。

 そんな左之助に剣心は怪訝そうに眉根を寄せた。

「それは拙者の台詞でござる。まだ酔う程飲んではおらぬはずだろう?」

「すまねぇ、いや、おめぇと飲むのは久しぶりだなぁなんて考えてたんだ」

「そうでござるな。・・・・うれしいよ、左之の顔が見れて」

 剣心は意識する前に口からすべり出た、あまりに素直な言葉に自分で驚いた。剣心も酔う程の量は

飲んでいないのだが、今日はまわりが早い。やはり連日の寝不足で体がまいってしまっているのだろ

う。

 左之助も、いつもの剣心にはありえない臆面のなさに面食らっていた。言葉で自分の感情を現すこ

との少ない剣心が「うれしい」と言ったのだ。自分に会えてうれしい、と。

 情けなくも鼻の奥がつんとした。

 剣心のたった一言で、感情も涙腺もひっくり返りそうになる。

(・・・惚れてんだなぁ、こいつに)

「おっと、つまみがなくなってしまったな。何か作ってくるでござるよ」

 空になった皿を重ねて、立ち上がりかけた剣心の袖を左之助が引っ張った。

「つまみなんかいらねぇから、座ってな。それに、まだ塩があるじゃねえか」

「塩で焼酎とは、左之も一人前の酒飲みでござるな」

 座りながら感心したように言う剣心を、左之助はにらむ。

「・・・ガキ扱いしてっだろ」

「いやいや。そうだな、この時間に厨房使うのも気が引けるでござるし。二人を起こしてしまっては申し

訳ない」

「ほんっとお人好しだな、おめぇは」

「拙者は・・・・」

 言いかけたまま、めずらしく口をつぐんでしまった剣心に、左之助は、何か気に触るようなことがあっ

たかと気弱になる。

「・・・おい、どうかしたのか?俺、なにかまずい事言っちまったか?」

 左之助にまた気を使わせてしまったと、剣心は後悔した。酒のせいで、言うつもりのない事を言いか

けただけなのに。ごまかしてしまおうと思ったが、不安そうに見つめてくる若者の目を見てしまうと、そう

いう訳にもいかなくなった。

 ふっ、と溜息のように笑うと、剣心は一気に杯を空けた。

「拙者はお人好しなどではござらんよ。たしかに、善人のごとく振る舞っているように見えるかもしれぬ

が、真似事だ」

 淡々と話す剣心に、左之助はかける言葉を探すこともできない。

「十年間、優しくあろうとしてきたんでござる。そう努力することによって、いつか本物になる、と自分に

言い聞かせて・・・。だが、今でも偽善者のままだ、拙者は」

 にこりと笑って残酷な事を言う。その顔は自嘲的ではなく、清らかささえ漂わせていた。きれいだ、と

左之助は思った。自分を蔑むような剣心の言葉さえも。

「すまない。人に聞かせるような話ではなかったな。どうも今日は今日はお喋りでいかんでござる。酒の

せいということで、勘弁してくれ」

「・・・・じゃあよ、全部喋っちまわねえか。酒のせいにしてよ」

「・・・物好きでござるな、左之も」

「知りてぇんだよ、おめぇのことならなんでも、な」

「なぜだ?こんな事、知っても何もならぬよ」

「いいや、俺はおめぇを理解してぇと思ってっからな、どんなちっぽけな事でも知りてぇ」

「・・・・・なぜ、拙者を理解したいのだ・・・?」

「馬鹿。そりゃあ・・・っ」

 惚れてるから、と喉まで出かかって冷汗が流れる。やばいやばい。根っからの直情型の左之助にとっ

て、好きなものを好きと言えないのは魚の骨が喉に刺さった時より辛い。

 言葉を詰まらせた左之助の方を見ようともせず、剣心はうつろに話しかける。

「仲間だからか・・・・・?」

「・・・・・ああ、そうだ」

 そのまま、二人は無言で酒を飲む。

 剣心は、突き放されたような気がしていた。自分のことを理解したいと言われた時、もしかしたら、と

期待で鼓動が早まったのだ。ありえない事だとわかっているのに。

(拙者も存外、思い切りの悪い・・・・・)

 ちらりと左之助に目をやると、何やら考え事をしているようだった。剣心は、自分が左之助を困らせて

ばかりいるようで、居たたまれなかった。そろそろ左之助を開放しなければ、と杯を置いた途端、

「剣心。俺はな。おめぇを尊敬するぜ」

「・・っ・・・!」

 剣心は耳を疑った。「尊敬」などという言葉をかけられたのは、生まれて初めてだった。自分に最もふ

さわしくないと思われる言葉に当惑して、視線をさ迷わせていたが、やがて答えを求めるように左之助

に焦点を合わせた。

 その大きな瞳を見つめ返す左之助の瞳には、どこかしら哀しい色があった。

「根っからの善人なんてどこにもいねぇさ。お釈迦さんじゃあるめぇしよ。どいつもこいつもてめぇの中の

汚ねぇ部分をてめぇで押さえ込んでるだけだ。だけど、そりゃあ人と上手くやっていくための知恵だった

り、誰かを幸せにしたいって気持ちからくるもんで、それが悪いってこたぁねぇはずだろ?」

 剣心は、ためらいがちにわずかに首を縦に振った。それでもなお、固く唇を惹き結んだままの剣心

に、左之助は「恋」以外の愛しさを感じる。

「おめぇみてぇに誰にでも優しくしようって人間が、どれだkいるってんだ。人にその気持ちが通じなくっ

て、おめぇがそのたんびに傷つけられてたって事くらい、俺にだってわかる。だけど、おめぇはくじけな

かったよな。優しくするって事に」

 剣心は、ほとんど空になっている大徳利に視線を移してしまっていた。その表情からは何の感情も読

みとれなくて、ともすれば言っている事が正しいのか間違っているのかもわからなくなる。そんな自分を

奮い立たせて、左之助は言葉を続ける。

「普通は人に優しくしたってぇにも邪険にされたり何だりすっと、いじけて、裏切られたみてぇな気がし

て、こいつにゃもう優しくしねぇなんて思っちまうけど、そりゃ無意識のうちに見返りを期待してるって事

なんじゃねぇか?・・・でも、おめぇはそんなもん期待してねぇだろ。だから今でも優しくなとうって思えん

だ」

「拙者はそうしなければ生きる事を許されないから、・・・・それだけでござるよ」

「んな事言うなよ、剣心。俺ぁはなっから優しい奴より、そうなりてぇってがんばってる奴の方が偉いと思

うぜ。なんべんいてぇ目にあっても十年も努力してきたなんてすげぇじゃねぇか。俺なんか今まで、優し

くしようなんて思った事もなかったぜ」

 おめぇは別だけどな、という言葉を飲み込んで、軽く笑う。

 左之助はもう、大分酒が回ったような気がした。こんなに真剣にしゃべったのは初めてだった。しか

も、相手を傷つけないよう、言葉を選びながら。

 おそるおそる剣心の方を向いて、ぎょっとした。剣心は唇を噛みしめ、済んだ両目はわずかに揺らい

で、泣き出す寸前のように見えた。剣心を泣かせるなど、たとえてめぇであってもただじゃおかねぇ、な

どと思って慌てて擦り寄ると、

「・・・・お主には、そのままでいてほしいでござるな・・・・」

 低い声でささやいて、儚げな微笑をその整った顔に浮かべた。

「ありがとう、左之。お主のような遊人がいてくれて・・・拙者は救われるでござるよ」

 礼を言われて、左之助は胸が詰まった。勝手に思ったままを口にして、気を悪くさせたかと危ぶんで

いたのに。しかも、ほんの少し、小指の先程だろうが、剣心の心が軽くなったかのような言葉をかけら

れ、自分の思いが間違っていなかったことを確信した。

 先程とは打って変わって、うれしそうに顔を緩ませている左之助に、剣心は一寸程近寄り、

「だがな、左之。一つ違うと思った事があった」

「えっ!」

 左之助はがばっと顔を上げ、不安そうな表情をあらわにした。

 そんな左之助にくすりと笑みをこぼして、

「拙者は確かに見返りを期待してはいなかったが、そんな事もないと気づいたでござるよ。左之に泣き

言を言ってしまったのは、お主ならば拙者の欲しい言葉を与えてくれるかもしれないとどこかで期待し

ていたのでござろう。・・・・甘えてしまってすまない。九つも年長の拙者が恥ずかしい事でござるな」

 うっすらと頬を染めながら頭を下げた剣心を、左之助はくらくらしそうな感覚の中で見ていた。

 とてつもない幸福感が腹の底から沸き上がってきた。あの剣心が、自分に甘えてくれているのだ。お

そらく、自分だけに。それはどんな名誉よりも、左之助を満足させた。

「左之。拙者もう大分酔ったようでござるから、ここらでやめておくよ。後は全部飲んでしまっても良いで

ござるよ」

 そう言うと剣心は横にあった手つかずの大徳利を軽々と持ち上げて、左之助の前に置いた。

 その拍子に寝間着の裾が割れ、日に焼けていない膝が覗いた。

 途端、左之助は下腹に猛烈な熱さを感じ、硬直してしまった。先程からずっとふわふわした気持ち

だったので、自制心が揺らいでいたのだ。目の前の穏やかな笑顔も、こんな時には目の毒以外の

何物でもない。

 こうなったら酔いつぶれてしまえとばかりに、左之助は徳利に手をかけた。

 ごふごふごふごふごふっ・・・・・・・

 呆気にとられて制止することを忘れてしまった剣心を尻目に、大徳利の七分程を胃に収めて、ぶ

はーっと息継ぎをする。さすがに血管が切れそうになったが、理性が切れるよりはましなので、再び徳

利に口を近付けた。

「こっ、この馬鹿者!そんな飲み方をしては死んでしまうではないかっっ!」

 血相を変えた剣心は、徳利を取り上げようと左之助の腕を掴む。思った通りに固くて、思った以上に

温かい手の平に、左之助の理性は風前の灯火となった。

(手をっ、手を放してくれいっっ、剣心!)

 左之助の必死の願いは通じず、剣心は更に指をからませてくる。

(けっ、けけけけけ剣心んんっっっっ)

 すでに頭の中が恐慌状態の左之助は、自分が徳利から手を放せばすむことに気が付かない。

「左之っ、駄目でござるよ」

 ぷちっ。

 至近距離での優しい声に左之助はついに切れてしまった。

 しかし左之助は偉かった。

 すでに剣心に伸びかかっていた手を根性で引き戻し、徳利を掴み直してとうとう空にすることに成功

した。

「さ・・・・左之・・・?」

 心配そうに剣心が左之助の顔を覗き込む。浮かび上がった鎖骨の辺りがまぶしいもののように見え

て、ぎゅっと目をつむったまま横倒しになり、左之助は意識を手放した。

 取り残された剣心は呆然と左之助の寝顔を見ていたが、はっと我に返って左之助の手首を取り、脈

をとった。普段よりは幾分早いが、心配する事もなさそうだった。

 安心すると、急に笑いが込み上げてきた。珍しく真面目な話をしたので、きっと照れくさくなったのだ

ろう、と剣心は解釈した。

 しばらく喉の奥で笑っていたが、やがて布団を取りに立ち上がった。

 戻ってくると、すでに熟睡しているらしく、左之助は大の字になって寝息を立てていた。起こさないよ

うにそうっと布団を掛け、枕代わりに二つに折った座布団を頭に当ててやる。

 子供のような、大人のような、寝顔。

 先程の言葉もそうだった。自分のような者を慕ってくれて、その事を口にするのをためらいもしない純

粋さ。それは子供のものだろうが、あの包み込む優しさは大人でなければ持てない。

 自分の生き方をあんなにもかばってくれる者は、後にも先にも左之助だけだろうと思った。

(左之助が、好きだ)

 そう感じる事に、もう何のてらいもなかった。

 切なくて、見るもの聞くもの全てが苦しい恋だが、左之助が相手ならばそれも良い、と思えた。

 叶わぬ恋ならば、せめて見つめていよう。恋人ではないけれど、かけがえのない友人は手に入った

のだから。

 この若者を見守っていたい。そばにいて、一緒に悩んだり悲しんだり喜んだりしたい。好きな娘がい

るのなら・・・・左之助がその人と幸せになれるように祈ろう。

 剣心は、自分の想いを胸に沈めておくことにした。

 溢れんばかりの恋情は、相手に伝えなければ気が狂いそうになる。たとえ受け取るのが拒絶の言葉

でも、前進するためには必要なのだ。そうでなければ、その恋はそこで止まったまま、心の中で血を流

し続けるのである。そんなみじめな恋を剣心は知っていた。

 それでも、左之助に伝えないでいようと決めた。

 この気持ちを知れば、優しい左之助はどんなにか困るだろう。悩んで悩んで、もしかしたらこの町か

ら消えてしまうかもしれない。自分の代わりに。

 剣心は布団からはみ出ている左之助の手の平に、触れるか触れないかという軽さで、自分の指先を

乗せた。

 ふいに、剣心の目から涙が溢れた。

 もう、泣く事など忘れてしまったと思っていたのに。自分の中に、こんな熱さがあるとは知らなかった。

 視界がぼやけて、左之助が見えなくなってしまった事が切なかった。頬を流れた一粒が、震えながら

開いた唇に吸い込まれる。

「お主が・・・・一番、大事でござるよ。・・・・・・・だから、お主が、拙者に愛想を尽かすまで・・・・そば

に・・・・・」

 聞き取れないくらいの声でささやく剣心の指先から、左之助の体温が伝わってくる。

 暖かかった。

 暖かくて、優しくて、幸せで、うれしくて・・・・・・・・哀しかった。

 

十、

「・・・あちぃ・・・」

 酒の残った体が熱くて、左之助は布団を蹴飛ばした。寝直そうと寝返りを打ったが、固い感触に痛み

を覚えて目が覚めてしまった。

(また畳の上で寝ちまった・・・・)

 酔っ払って布団以外の所で寝てしまうのは日常茶飯事だった。自分の家でも他人の家でも、飲み屋

でも。はて、ここはどこだと視線を泳がせて、かばぁっと飛び起きた。

 眠っている剣心がいたのだ。

 柱にもたれ掛かり、こくりこくりと船を漕いでいる様はどう見てもうたた寝だった。もう明け方だというの

に、薄い寝間着一枚でいつまで起きていたのだろうか。

(そういや嬢ちゃんに言われてたんだったな、剣心が寝てねぇって。いざとなったら酔いつぶすつもり

だったってぇのに・・・・)

 自分がつぶれてしまったのだ。頭を掻きむしっても仕方がないので、とにかく剣心を布団で寝かせよ

うと思った。

 近づくと、小さな寝息が聞こえた。剣心の寝顔を見るのは初めてだと、思わずふにゃりと笑ってしまっ

て、一人で赤面した。

 抱き上げて、布団の敷いてあるはずの剣心の部屋へ運ぶのが手っ取り早いのだが(役得ではある

し)驚いて目を覚ましてしまうだろうから、まず起こす事にした。

「・・・剣心」

 途端にぱちりと目を開けた剣心は、左之助の顔をぼぅっと見つめた。

「・・・・あぁ、左之・・・・」

 ため息のようにささやいて、ふわりと微笑む。

「体が痛むでござろう?布団で休ませてやりたかったのだが、お主を運ぶのはさすがに無理なのでな。

勘弁してくれ」

「・・・・おめぇなぁ、俺の事より・・・・」

 自分の心配をしろ、と言っても剣心は困ったように笑うだけだろうと思い、左之助は胸の中でため息を

ついた。

「ほら、まだ暗いから部屋行って布団入んな。ずっと起きてたんだろ?何なら昼まで寝ちまえよ」

「もうすぐ日の出でござるよ。それに、そんなわけにもいかないでござる。朝食を作るのは拙者の役目。

充分に眠ったから、心配するな」

「嘘つけ、目が赤いじゃねぇか。嬢ちゃんからおめぇがここんとこ寝てねぇって聞いてるぜ。倒れちまっ

たらどうすんだ」

「そんなにやわではござらんよ」

「やかましい。顔色わりぃじゃねぇかよ。とにかく寝ろ。布団に押し込めるぞ」

 ぶっきらぼうだが、本気で自分の心配をしてくれているのがうれしくて、剣心は素直に従う事にした。

「わかった。寝るでござる」

 ゆっくりと立ち上がって襖を開け、くるりとふりかえり、

「お主も来るでござろう?」

 ずざーっと五尺程後退った左之助は、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせている。

「・・左之・・・・?お主の部屋にも布団を敷いておいたのだが・・・・・?」

 左之助が道場に泊まる時に使っている部屋は、剣心の隣の部屋だった。そして、これが左之助が泊

まらなくなった大きな理由の一つである。

「あっ、・・・・あぁ、うんっ、・・・・・・・・・・後で、行く」

「そうか?じゃあ、おやすみ」

「・・・・おやすみ・・・・」

 剣心の足音が遠ざかると、左之助は盛大に息を吐いて心臓の辺りをとんとんと叩く。

(あ、阿呆か・・・・剣心がなんでと床に誘うんだよ・・・・んなわけねぇだろが・・・・・)

 青春真っ盛りの相楽左之助(十九)は、想い人の顔を見る度に不健全(?)な妄想と戦っている。す

ぐに部屋へ行く気になれず、座布団の枕に転がっているうちに眠ってしまった。

 日が高くなってから弥彦に叩き起こされ、顔を洗っていると洗濯をする剣心の姿が見えた。

(昼間で寝てろと言ったのに・・・)

 むすっとしながら茶の間へ行くと、いつの間に戻ってきたのか剣心が食事を運んできてくれた。どう見

ても薫の作った料理ではない。ということはいつも通り起きて家事をしていたのだ。

 「寝ていない」というより「眠れない」のではないか。これは根が深そうだと左之助は頭を抱えた。

 自分が原因だとは夢にも思わずに。

 夕方、「松乃屋」へ行こうと陽の匂いのする印半纏に着替えていると(剣心が洗ってくれたのだ)畳ん

だ洗濯物を抱えた剣心が通りかかった。

「剣心。俺、夕飯いらねぇ、出掛けっからよ」

 剣心は一瞬ぴくりと身を固くしたが、すぐにいつもの顔に戻る。

「わかったでござる。あ、そこまで送るでござるよ」

 洗濯物を部屋に置くと、歩き掛けていた左之助を追いかけてきた。

「昨夜の酒は抜けたでござるか?もうあんな無茶飲みをしてはならぬよ。左之になにかあっては小夏殿

が悲しむでござる」

 剣心の口から小夏の名前を聞いて、左之助はぐっと息を詰めた。

 本当の事を言うべきか。剣心なら口の固さは信用できる。

 何より、惚れた相手に誤解されたままというのは辛い。しかし、色恋沙汰にはいささか頭でっかちな

印象を受けるこの男に「嫁入り前の娘御にそのようなでまかせの噂をたてるなーっ」と怒鳴られるかもし

れない。たとえその相手が芸者だろうと花魁だろうと剣心なら差別なしだろう。

「・・・・あ〜、もう知ってんのか。や、あいつはんなタマじゃねぇって。酒でおっ死んだって聞きゃあ、腹

抱えて笑った後で線香あげにくるんだぜ」

 実際、そう言われた事があったのだが、剣心はそれを聞くと不愉快そうに眉根を寄せた。

「左之。どんな理由であれ、惚れた相手が亡くなったとなれば辛いものでござるよ」

「・・そうだな。無神経な事言っちまった」

「・・・・まぁ、小夏殿ならお主の性分はわかっておられるだろうから。・・・拙者の心配する事ではなかっ

たでござるな。・・・では、気をつけてな」

 道場の門前でぽんと背中を押され、左之助は反射的にふりかえって剣心を見つめた。

「どうした・・・・?」

「・・・なんでもねぇ」

 くるりと向きを直し、そのまま二、三歩進んで

「近いうちにまた来っからな!」

 と叫んで足早に消えていった。

 その後ろ姿を見送りながら、剣心は小夏の事をさりげなく話題にできた事に、ほっとしていた。今は

無理でも、いつか心から二人を祝福する事ができるだろう。否、そうならなければと思った。左之助の

友人でいるために。

 

十一、

「あれ、左之助じゃねぇか?」

 出稽古の帰り道、町中で左之助を見かけた弥彦が二人に言った。しかも、

「あら、すっごくきれいな人!」

 小夏と一緒である。おそらく「松乃屋」に向かう途中なのであろう。芸者姿ではない。久しぶりに出稽

古のお供をしたというのに、とんだ場面に遭遇してしまった。

 町娘にしては抜きすぎの襟と、高価なのだろうが地味な紺の着物が不思議な色香を漂わせ、何人

かの男を振り返らせている。親しそうに話しながら歩いている二人はどこからどう見ても恋人同士だっ

た。さすがに見ていられず、剣心は薫と弥彦を促して先を急ごうと思った瞬間、薫がぶんぶんと腕を振

り回して叫んだ。

「左之助〜!」

 ぎょっとして引き止めようとしたが時すでに遅し。薫は人混みをかきわけて左之助と小夏のそばへ行

ってしまっていた。弥彦までもが嬉々としてその後を追ったので、剣心も知らんぷりはできなくなってし

まった。

 足枷を付けられた人間というのは大変でござったろうな・・・・などと妙な事を悟ってしまう程に重く感じ

られる足を運びながら四人の前に行くと、すでに自己紹介は済んでいるらしかった。

「あ、剣心、こちら深川の芸者さんなんですって。小夏さん、よ」

「緋村剣心と申す。お見知りおきを」

 小夏は、年若い(ように見える)美貌の青年の操る武家言葉に驚いたようだったが、すぐに目を伏せ

て、腰を折った。

「こちらこそ。お噂は左之助さんから伺っております。たいそうお強いそうでござんすね」

「はは。酒のことでござるかな」

「そうよぉ、この間なんて左之助と二人で大徳利二つも空けちゃったんですよ」

「あらまぁ、左之助さん。あたしより緋村様のお酌の方が良ござんすかね?」

 ちらりと意味深な流し目を左之助に送る。

「そろそろ行かねぇと遅れちまうぞ」

「はいはい。それじゃ皆様、失礼しますよ」

「残念だわ。もう少しお話したかったのに」

「また次の機会に・・・。ぜひお店の方に来て下さいましね、緋村様」

「は・・・・」

 何か含んだような小夏の言葉に、何と返そうかと、迷っている間に、薫と弥彦が挨拶をしたので、剣心

も頭を下げ、そのまま別れた。

 雑踏に消えていく三人を見送りながら、小夏はばしっと左之助の背中をはたいた。

「まぁまぁまぁまぁ、左之助さんっ!な〜んて良い趣味なんでしょっ」

 「そ・・・そっか?」

「役者でもあんなにきれいな人は見たことありませんよ。それに上品そうで優しそうでりりしくて!年の割

に貫禄があるっていうのも良いじゃござんせんか」

「年のわりに・・・・っていくつだと思ってんだ?」

「そうだねぇ・・・十七、八ってとこに見えるけど、もしかして二十歳越えてんのかい?」

 途端に左之助は体を二つに折って笑い出した。むっとした小夏に再びはたかれても止まらない。げ

んこつをお見舞いしてやろうかとも思ったが、通行人が何事かと振り返っていくので、売れっ妓芸者とし

てはこれ以上の暴力は振るえない。

「左之助さんっ、いい加減におしっ。何がそんなにおかしいっていうんだいっ?」

「だ・・・だってよう・・・・じゅ、十八って・・・・俺より下かよ・・・」

 目に涙まで浮かべての大笑いに小夏は怒りを通り越して呆れてきた。

「・・・いつから笑い上戸になったんでござんすか?」

「す、すまねぇ・・・。いや、そうだな、確かに見えるよな。実はな、あいつは」

 にらみつけている小夏に、ごたいそうにもったいつける。

「剣心はな・・・・二十八だ」

 ぽかんと口をあけたまま、言葉を失った小夏を見ていると、また笑いが込み上げてくる。

「ま、俺も最初はそう思ったけどよ」

 呆然としている小夏に行くぞ、と言う風に肩を押す。

「左之助さん・・・・」

「ん?」

「あの若さの秘訣を聞いてきておくんなさいな」

「・・・へいへい」

 

 

 

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