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怪談似非牡丹灯籠 (くわいだんえせぼたんどうろう)

 
顔を洗おうと、盥の中の汲んだばかりの水に手を浸した剣心の目元がふと和む。
―――もう、春か
 水面に映る自分の顔を崩してすくった温んだ水を、両手で顔にぶつけるようにした。清冽な水飛沫が周囲に舞い散り、春先の陽を綺羅と弾く。
「冷ゃっこいな、おい」
 子供のように水をまき散らしながら顔を洗う剣心の背後で、耳に快い若い声。
「左・・・・・・」
 之、の声を発する間も振り向く間もなく、いきなり温かい胸の中に背後から抱き込まれていた。
「お早うさん。飯ぁ出来たか」
 薫達に見つかる前に腕の中から抜け出ようともがく剣心をさらに強い力で抱き込む左之助
の、赤っ毛の頭頂部に顔を押しつけているせいでくぐもった、悪戯っぽく笑う声が頭蓋に響く。
「こ・・・・・ら、放すでござる」
 前髪から滴る水滴で左之助の半纏の袖を濡らしながら必死に腕をほどこうとしてみるが、こんな形で抱きかかえられてしまっては彼の剛力に抗う術はない。これほど側近くに寄られていて、声を掛けられるまで気づかなかった己の気の緩みぶりが情けなくもだらしなくもあり、それがためにしなやかな腕に食い込む指は余計に手荒くなる。
「ったく、猫の仔みたようだの、お前ぇあ」
 さらに朗らかな笑いを重ねる左之助は、半纏の布(きれ)越しながら我が腕に爪を立てている剣心を、お望み通りとばかり解放してやった。
「左之、お前・・・・・・」
 こんな場所でこんなことをするなと抗議しようと振り向いた途端、
「わ、ぷ」
 いきなり顔に手拭いを押しつけられた。そのまま、大きな手が小さな顔をがしがしと拭く。
「い、痛た、左、左之・・・・・」
 制止しようとする前に手拭いは除けられたが、上機嫌の左之助に乱暴に拭かれた顔がひりひりと痛い。楽しそうな男前の顔を気分を損ねたような顔で一応睨(ね)めつけてみるが、そんなものなどどこ吹く風と澄ましこんでいる。
 男と女ではないのでこんな時になんというべきなのか剣心はわからないが、とにかく左之助と男女の仲ならぬ男同士の仲になって一月と半分が過ぎた。それ以来、会う度に―――というのはほぼ毎日を指すのだが―――いつもこの青年は目一杯の上機嫌で、ひどく子供じみた振る舞いをする。正直言えば剣心もまんざらではないが、そこはそれ、年上としての威厳は保たねばならない。もっとも、剣心のそんな態度を照れ隠しだとか年上としての矜持だとか露ほども思わぬらしい小僧っ子と衝突するのもしばしば、自分たちの関係を自然に受け止められるようになるには、お互いいましばらくの時間が必要そうではある。
「はしゃぎすぎではござらぬのか、左之」
 いつもと同じ穏やかな調子で素っ気ない言葉を投げる。途端に左之助の眉が上がった。
「誰がはしゃ・・・・・」
 お天気屋の機嫌が早くも荒れて、腕まくりで身を乗り出しかけた瞬間、
「ご飯よ剣心。あら、あんたも居たの?いいわ、一緒に食べていきなさいよ」
 軽い足音が廊下を渡って、薫が笑顔で朝食の支度の出来た旨を告げに来た。ただ飯食いのなんのと、左之助の顔を見れば挨拶代わりの憎まれ口だが、その実今までの寂しさから解放された嬉しさが口調と明るい表情に滲んでいる。しかし、左之助の顔がさっと青ざめた。
「ま、まさか今朝の飯ぁ嬢ちゃんがこさえたのか?」
「そうよ。今日はちょっと自信があるの」
 おそるおそると尋ねた左之助に、薫は完爾たる笑顔で答える。が、答えを聞いた瞬間、左之助の脳裏に煮詰まった味噌汁と焦げだらけの苦い飯の映像が浮かんだ。その日の気分と腹具合次第では薫の作った食事を食っていくこともあるのだが、
「今日ぁ嬢ちゃんの不味い飯なんざ食う気もしねえ。帰るぜ、じゃあな」
 失望の溜息をつくと片手を上げて背を向けた。
「なんですって!!ちょっと待ちなさいよ左之助っ!!」
 乙女に向かってのあるまじき侮辱を受けた薫が頬を上気させ、眦を吊り上げて袖を肩までまくり上げる。足袋のまま庭に降りて左之助を追いかけようとするのを、
「薫殿、足袋が汚れるでござるよ。拙者も腹が空いたし弥彦も待っているでござろうから、さ、早く朝餉にしよう。手伝うでござる」
 慌てて押し止めた。
 憤る薫を宥めながら台所へ向かい、自分の蒔いた種をまったく無関心に歩み去っていく惡一文字の後ろ姿を横目に見やる。こっそり頭の中で数えると、最後に肌を合わせて今日で三日目。今夜辺り忍んでくるか、それとも誘いに来るか―――などとつい考えて頬を赤らめ、頭(こうべ)を振って振り払う。
「剣心?どうかしたの?」
 薫が怪訝そうに瞬きながら問いかけてきた。
「あ、いや・・・・ちょっと虫が鬱陶しくて」
 取り繕って笑顔を向ける。
 しかし剣心の予想に反して、その夜左之助は誘いにも忍びにも来なかった。


 翌朝、どこか剣心の視線を避けている様子ではあるが、いつもと変わりなく左之助は神谷家を訪れて朝餉にありつき、昼を食い、夜まで食って帰っていった。
 翌日、左之助は昼に訪れて昼餉を食い、夜を食って帰っていった。
 そんな日が、数日続いた。
 左之助が神谷邸を訪れぬだけのことなら珍しくもない。剣心と些細なことでいさかうと、すぐに臍を曲げて一日二日来なくなる。だが、日中は普通に訪れてきて夜になると帰っていくというのは―――独り寝の布団の中で眠れずにあれこれ考えながら、剣心は左之助が自分の気持ちを図っているのではないかと思いついていた。考えてみれば、左之助は面と向かって「惚れている」と言ってくれたが、剣心はそれにはっきりとした答えをしていない。左之助の気持ちを受け入れたことで、言わずもがなの答えとしたつもりだった。その上、夜忍んでくるのも誘うのも左之助、剣心はただそれに対して否だの諾だのと言っているだけだ。
 剣心には剣心なりに左之助とのことに自分から積極的に動けないそれなりの理屈はあるのだが、この二月足らずを思い返すにつけても、あの若者の気持ちに甘えているような、そしてまるで小娘のように恋しい男をただ待ちわびているだけのような、そんな情けない心持ちにもなってくる。暗い天井を見上げて二度三度と寝返りを打ちながら、剣心は自身にとっての一大決心をした。


 翌朝、左之助はいつも通りに神谷家を訪れた。朝餉を終えて器を上げ、薫と弥彦は出稽古へ、食事の後も屋敷へ居座りを決め込んだ左之助はつい先刻(さっき)起きたばかりなのであろうに、陽の良く当たる縁側ですでに高いびきだ。
 まめに洗っているせいでさのみ量もない三人分の洗濯を終えた剣心が襷を外しながら近寄っていっても、目を覚ます気配はない。縁側に沿って長々と横に伸びている左之助の、枕はないが枕元に腰を下ろす。覗き込めば、案外長い睫毛がどこか稚(おさな)い印象を与える端整な顔立ちの目から頬の辺りにかけて、微かな憔悴が見て取れた。不審気に眉を寄せ、もっとよく見極めようと鼻先が付くほど左之助の顔に顔を寄せる。と、なんの兆候もなしに左之助が目を開けた。
「あ」
 思わず小さな声を上げ、剣心は慌てて身を起こす。
「おお?なんでえ、口でも吸ってくれようてえつもりだったのか?」
 笑み崩れた左之助が、喧嘩屋斬左の剛名が伊達ではなかった早業で、身を引いた剣心の手首をとらえた。
「違うよ馬鹿。お前がいささか面やつれしているようでござるから・・・・・」
 すぐにいつもの平静さを取り戻した剣心が、照れ隠しにことさら冷淡な口調で言うと、
「う?」
 喉が詰まったような声を出した左之助が、空いている左の手で己の顔を撫でる。
「どこか加減でも悪いのか?」
 これは曲がりなりにも心底から心配しての言葉だったが、
「どこも悪かねえよ」
 笑顔に、暗い陰は消えてしまった。
「そうか?ならばよいが」
 懸念の消しきれない声でもう一度左之助の顔を覗き込む。
「この左之助様がなんで塩梅悪くするってんだ?ん?」
 伸びてきた長い腕に引き寄せられて、左之助の胸に抱え込まれてしまう。
「左之」
 押しのけようとしたが、却って強く抱きしめられた。
「いいじゃねえか、誰もいやしねえぜ?」
 耳元に囁かれる低い声と温かい肌の香に官能の疼きを覚えながら、剣心はおずおずと半纏の下の瑞々しく張った浅黒い肌に手を回す。頭上にあるので表情は見えないが、満足そうに鼻を慣らした左之助の顎が、重みをかけないように剣心の頭の上に乗せられた。
 目を閉じ、しばらく黙って左之助の胸に頬を寄せていたが、昨夜来の一大決心を口にしようと剣心は一つ小さく息を吸う。顔を見ずに言うのは卑怯なような気がして、彼の背に回した腕はそのままに左之助の胸元から顔を上げた。
「あのな、左之。今夜・・・・・・来ないか」
 一瞬言葉の意味が分からないような顔をした左之助が、次の瞬間呆けたように口を開けた。なにぶんにも色が黒いので判りにくいが、どうやら頬が赤くなっているらしい。しかし、
「い、いや、済まねえが野暮用だ」
 そう言って、視線を避けるように顔を背けてしまった。剣心にとっても、生半な気持ちで言った言葉ではない。
「なら、明日は?」
 食い下がる。
「あ、明日ぁ・・・・・・銀次たちと、丁場だ」
「なら、明後日は?拙者が、お前の長屋に行ってはいかぬか?」
 剣心がたびたび外泊するには家主の薫に遠慮があることもあり長屋では声が筒抜けなこともあり、近頃は忍んでくる左之助と神谷家の蔵で睦むことが多い。そこで来ないかと誘ったのだが、来られぬというなら行ってもいいかと、そう言った時の剣心は年甲斐もなくいささか意固地になっていた。
「明後日のこた・・・・・判んねえ」
 そっぽを向いたままの横顔を、まじまじと見つめる。生成の半纏の下に入れていた手を静かに抜き出すと裾を払って立ち上がり、いつもと同じ人当たりのいい微笑を左之助に向けた。
「そうでござるな。お主も暇ではないものな。駄々をこねて済まなかった」
 親密であったが故に、突然見知らぬ他人以上に心が遠く感じられてしまった青年から身を離し、傍らに投げ出したままの襷を取り上げると、盥を置きっぱなしにしていた井戸端へ足を向ける。
「あ、う」
 声にもならぬような声を上げた左之助が、縁側から腰を浮かせた。剣心は盥を拾い上げ、それを置きにいくのだろう、厨へ向かって一度も振り向かずに歩み去っていく。
「くそっ」
 情けない面持ちで呆然と見送った左之助は地を蹴り、もう一度縁側に腰を下ろすと溜息を吐(つ)いて頭を抱えた。


 数日前―――剣心が顔を洗う水に春を感じたまさにあの日の夜、剣心の予想通り左之助はすっかり彼の元へ忍んでいく気で居た。食いはぐれた朝餉の代わりに、帰り道で寄った赤べこで早い昼の分までしこたま獣肉(ももんじ)を食らい、夕方までは賭場、その帰りに修に蕎麦をおごらせて長屋に戻って一眠り、さていざ出かけようかと言うときに、しかしその椿事が出来した。
 いきさつはこうだ。
 起き抜けをしばらくぼんやりとして、真っ暗な部屋を出ようと丸に左の字の腰高障子に手をかけた瞬間、ほとほとと、まさに左之助が手をかけているその障子を叩く者があった。訝しげに眉を寄せる。喧嘩屋を生業にしていたせいで、左之助は人の気配に鋭敏だ。広くもないが、座敷の真ん中で戸口に背を向けていても、我が家を訪ねる者があれば障子の前に立っただけで気づく。それが、まさに障子が叩かれるまで人の気配に気づかなかったとは、大袈裟ではなく左之助にとっては尋常ではない。まして月の明るい夜だ。逆光になった障子に若い娘らしい影が浮かび上がっているが、それさえこの瞬間まで気づきもしなかった。
「おう。誰だ」
 なんぞ常ならぬものを感じて、障子に映った影を慎重に伺いながら問いかける。
「あの・・・・・こちらは相楽左之助さまのお宅でござんしょうか・・・・・」
 影が微かに揺らいで、若い娘の鈴振るような細い声がした。
「ああ。相楽左之助てな俺だ」
 ああ、とか細い声に明るい華やぎが加わり、娘の顔が歓喜に染まったのが見えるようだ。
 恨みならあちこちで買っている。お礼参りなら珍しくもなく、女を使って油断させての不意打ちという下種なやり口も幾度かあったが、左之助の本能がこれはそれとは違うと告げていた。
娘の歓喜は演技とは思えず、そしてなにかもっとこう、お礼参りなんどよりずっと不穏な気配がある。
「このような夜分にさだめし怪しい者と思し召してござんしょうが、ちっとここを開けていただくわけにはまいりませぬか。あの、わたし・・・・・」
 言いさして、羞じらうように語尾が消える。油断なく影をうかがうと、娘はもじもじとしているらしい。娘のそんな様子と先程からの嫌な気配が一致せぬのが余計に神経に障ったが、
「構やしねえぜ」
 すらり、といきたいところだが安普請の古長屋ではそうもいかず、薫に分けて貰った蝋を塗ったお陰でなんとか動くような建て付けの悪い障子を躊躇いもなく開け放してやった。
 こうも容易く開けて貰えるとは思っていなかったらしい驚いた娘の顔が、満月の光に浮かび上がる。思わず、左之助は低く口笛を鳴らしていた。夜の闇に沈む着物は薄紅梅の角平市松、根かけの緋鹿の子も鮮やかな結綿に、蝶々をかたどったびらびらの簪を挿し、ふっくらと情をたたえた唇に紅をひいた白い顔の上品な美貌は、大店のお嬢様といった風情だ。年格好は薫と同じくらいだろうか、切れ長な目の濡れたような黒い瞳がなんとも艶っぽい。
 左之助はそれとなく辺りをうかがうが供の居る様子はなく、自慢ではないが女にもてる自覚はあるので、まさか一人で忍んできたのかと思った途端、
「相楽様・・・・・わたし・・・・・わたし・・・・・・」
 突然泣きだした娘の軽い身体が、すがるように腕の中に飛び込んできた。
「ま、まあこんなところじゃなんだ、中ぃ入りねえ」
 部屋の中に居ても三軒先まで丸聞こえの裏長屋で、外でこんなことをしていては長屋中に聞かせてやるようなもの、誰かの口から剣心の耳に入らぬとも限らない。娘の薄い肩を抱えて粗末な部屋に上げてやる。なけなしの油で行灯を点し、しばらく慰めているうちにようやく落ち着いたらしい娘が驚くようなことを言い出した。
「わたしは上野池之端の米問屋、内田屋の娘でみねと申します。実はわたし・・・・・生きた人間 ではござんせん」
 さすがの左之助が唖然とする。涙に濡れた目は嘘を言っているとも思えず、かと言ってわたしは幽的でござんすと言うのを、はいそうですかと肯けるものではない。みねは左之助の様子に、
「相楽様が嘘と思われるのも無理はござんせん。失礼して、ちっとお手を拝借・・・・・」
 ひやりと冷たい手が左之助の手を取る。
「はしたないと、思わないで下さいまし」
 頬を赤らめた娘が、左之助の手を我が襟元に導いた。
「お、おいおいおみねさん」
 さすがに慌てたが、みねは少しも構う様子なしに左之助の手を懐に納めた。
「こ・・・・・・いつぁ」
 左之助が絶句する。華奢な身体付きからは想像も及ばぬ豊かな胸はふっくらと柔らかだが、到底これが生きた人間とは思えぬほどに冷え切っている。懐に納めた左之助の手を再び外へと取りだし、
「胸元ばかりでなく、わたしの身体はどこもかしこもこんな風に冷たいのでございます。町行く姿を拝見するばかりのお前様への想いが凝って・・・・・・浅ましくも成仏できませなんだ」
 前置きして、みねが語った。
 左之助の見立て通り、みねは今年で数えの十七。上に兄が二人居るが、内田屋の一人娘で父母に随分と可愛がられて育ったらしい。みねには親たちの決めた許嫁が居て、来月にも輿入れする手筈になっていたのだそうだ。
「浅草にある同じ米問屋の総領息子で伊助さんと申します。幼い頃から遊んで育ったものでもう一人の兄のようでもあり、わたしも年頃になると憎からず思ってまいりました。でも・・・・・」
 二月ほど前に、店の前を通っていく左之助をたまたま居た帳場から見かけたのだそうだ。日によって歩く道も違うが池之端と言えば本郷へ行く道すがら、まして赤べこが同じ町内にあるので内田屋の前なら確かに幾度となく通っている。
「わたし、世間知らずですからお前様のことをちっとも知りませなんだ。でも女中達が色々と教えてくれて・・・・・・おかしゅうござんすね、一度も口を利いたこともないお前様に、すっかりと・・・・・・・恋焦がれてしまいました」
 最後の言葉を言ったときの、袂で隠して俯いた頬を赤らめたさまがなんとも初々しい。幽霊とは言え美女に恋しいと言われれば、左之助も悪い気はしない。しないどころか鼻の下がだらしなく伸びる。元々女は大好きだ。
「けれどお前様にお声をかけるさえ叶わず、恋心ばかりがどんどんと募っていって、その内にも伊助さんとの祝言が近づいてまいります。所詮は磯の鮑の片想い、それなのにお前様が思い切れず、誰に言いだすわけにもいかず・・・・・気鬱の病から床に伏せり、昨夜寿命が尽きました」
 再びみねの瞳に涙が宿り、さめざめと泣き濡れる。
「あ、う、そ、そいつぁ」
 さすがの左之助が三度(みたび)慌てた。知らぬこととはいえ、自分を想うあまり寿命を縮めたと言われれば、責任を感じぬわけにはいかない。
「いいえ、お前様のせいなんどと言うつもりはもちろん毛一筋もござんせん。これもわたしの寿命でございます。ただ・・・・・ただ今生の思い出に・・・・・蕾のまま散ったを哀れと思し召しされたら・・・・・・一夜のお情けを・・・・・・ただ一夜、わたしの冷たい肌を温めてくださいまし」
 みねが幽霊でなくば、こうして胸にすがられかき口説かれて、陥落しない男は余程の小心者か堅物だろう。もちろんみねが生きていても彼女の気持ちに応えるわけにはいかないが、せめて自分の口からほかに大事な人が居ると言ってやれれば、彼女はすっきりと伊助とやらに嫁いで幸せな生涯を送ったのかも知れない。死ぬほど思い詰めたのなら、幽霊になる前に言ってくれればよかったのだ。あるいはみねの言うとおり、これが彼女の寿命であるのかもしれないが―――。
「よし、わかったおみね」
 幽霊とはとても思えぬ、しっかりと肉を持った胸の中の華奢な身体を抱きしめる。同じ華奢でも、剣心とはやはり違う。薄くてか細くて頼りなく、今にも消えてしまいそうだ。
「これであんたの供養になるなら、泊まっていきねえな」
 言ってから、幽的に泊まるも泊まらぬもないものだと思ってふとおかしくなるが、みねは涙に濡れた顔を明るく輝かせる。
「まあ・・・・・嬉しゅうござんす、人ならぬ身の・・・・・こんな冷たい身体のわたしを・・・・・・」
 ひしとしがみついてくる身体をもう一度抱きしめ返し、左之助は文庫くずしの帯を慣れた手つきで解き始めた。


 翌朝、目を覚ました左之助の傍らからみねは消えていた。幽霊なのだから当然だろう。一夜限りの情けと言っていたが昨夜眠りに落ちる前に、
「お情けをとは申しませんが、明日の夜もこうして参って、語らっていただくわけには参りませぬか」
 と囁かれ、ついほだされて肯いてしまったような気がする。だがそれよりも、陽の光の中で昨夜のことを思い返せばどうも夢とも現とも判然とせずしばらくぼんやりとして、二日続けて食いはぐれそうになった朝飯を慌てて食いに行った。
 神谷家へ行って剣心の顔を見れば、これまた罪悪感の湧くような、とはいえ相手は生きた人間でもなく、ましてあれでみねを拒絶する方がよほど人でなしのような気もしつつ―――初めて剣心と肌を合わせてからこんなに間を空けたことはないのを気にかけながらも、夜は半信半疑に長屋へ帰ってきた。
 夜、やはりみねは来た。
 左之助が夢うつつに聞いたとおりただ話だけして帰っていったのだが、帰り際にまた明日も、と言った。頬を染めて羞じらう、そして喜びに満ちた表情にはとてもすげなく出来ない。剣心のことが頭をよぎったが、一応自分の気持ちを受け入れてくれてはいるもののそう積極的ではないあの様子なら、しばらく通わずとも気にもしないだろうと決めつけた。浮気という意識もなかったので、顔を合わせている間は普段通りに振る舞ってもいた。
 しかし、思いもかけず。
 抱えた頭を上げて、盥を小脇に遠ざかる剣心の後ろ姿を見つめる。
 あんな風に真摯な目をして、会いたいと言ってくれるなど思いもしなかった。
 初めて、左之助の胸を罪悪感が鋭く刺していた。


 いつもそうして立てかけてある場所に盥を置き、剣心は懐で腕を組んで眉を寄せる。左之助の、あからさまな虚言(うそ)の意味するところを考えていた。なんぞ悪巧み、というのが真っ先に頭に浮かんだが、左之助の気質を考えれば盗み押し込みなどといった真似をしようはずもなく、ましてや誰ぞを闇討ちなど選りに選ってあの男がするわけがない。再び喧嘩屋でも始めたかと思ったが、喧嘩屋は左之助が自主的に辞めたことであって剣心が辞めろと言ったわけでもなければ、実際左之助が喧嘩屋を再開したところで何を咎めるつもりもない。どんな理由があれ暴力を生業とするのはいかがものかと思わぬでもないが、少なくとも左之助の力が理不尽に揮われることがないならなおさらだ。
 あれこれ頭を悩ませながらはたと、
―――悪い遊び
 と、考えつく。しかし悪い遊びと言って、今さら酒も博打も隠すようなことではあるまい。そして、左之助が自分に隠れてしよう悪い遊びにようやく思い当たった。
 女。
 不意に、胃が縮む。
 あんまり馬鹿馬鹿しい考えだ。剣心とささいないさかいを起こすと、左之助は当てつけがましく昔の女達のところへ転がり込む。その左之助が、今さら隠れて女遊びをしようはずがない。それともまさか、当てつけや遊びではなく本気なのだろうか。だが彼が、二人がこんな関係になってたった二ヶ月で心変わりするようなそんな不実な人間であるはずはないし、第一、二股かけていてあんな平静な顔をしていられるほど厚顔な人間でもない・・・・・・はずだ。
 勢い良く、剣心は頭を左右に振った。
 何の証左があるわけでもないものを下世話に疑ってかかる、自分の心根がひどく卑しく思われる。左之助の屈託のないあの笑い顔を見れば下らぬ猜疑心も晴れるような気がして、剣心は薄暗い土間から陽光の下に踏み出した。
「わ、っと」
 途端に鉢合わせした左之助が、驚いたような声を上げる。
「あ、左・・・・・」
「か、帰るぜ。昼はいらねえ。晩飯もだ」
 剣心が呼び止める間もなく、まさにそそくさといった様子で門を出ていってしまった。あとに残されて、剣心は呆然と左之助が出ていった後の門を見つめる。再び、その体内で胃が身を竦めた。


 いらないと言ってはいたものの、もしや来るのではないかと薫には内緒で四人分の食材を支度しておいたのだが、左之助はとうとうその日、神谷邸を訪うことはなかった。
 潜り込んだ、春浅い夜の冷たい布団の中でまんじりともせず暗い天井を見上げる。
 まさかと思いながら一度萌した疑念を追い払うのは容易くなく、むしろ考えれば考えるほど左之助の態度の何もかもが符号に一致するような気さえして、かつて一度も知らなかった懊悩に身が焼ける。努めて考えまいとしながら幾度も寝返りを打ち、それでも気づけば思考は堂々巡りを繰り返して剣心を苛んだ。なんぞ違うことを考えようとすれども、閉じた瞼の裏に思い浮かぶのは覚えてもいなかったような左之助の些細な仕草や表情、声。目をつむっているのがいかぬのだと暗い天井を見上げ、挙げ句には寝慣れぬ寝具から這いだし、逆刃刀を抱えて壁に背を預ける。流浪れ続けたこの十年、布団の中に温むよりもこうして寝(やす)むことの方がずっと多かった。たった一つの拠り所のように抱く逆刃刀の、鉄拵えの鞘の冷たい感触に心休まる己に苦笑が浮かぶ。
 見えぬ焚き火に暖を求めるかのように身体を丸めて、左之助の態度の不審さの理由をもう一度落ち着いて考えようと努めてみるが、どれほど考えても同じ思考に立ち戻っている自分に気付く。歎息し、一層身体を丸めて―――剣心は月光の照らす畳の目を数え始めた。



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