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 翌日、左之助は神谷邸を訪れなかった。さらに二日も間が開いて、薫がなにかあったのだろうかと気を揉み始めた頃にようやく朝餉に顔を見せる。同じ睡眠不足でも元々眠りの浅い剣心のそれは誰にも気付かれていないが、左之助の表情に睡眠不足と疲労が色濃い。さすがに薫が、
「左之助、あんたどこか加減でも悪いの?」
 なにか考え込むような顔でもそもそと飯を口に運ぶ左之助に問いかけた。いつもは鼻っ柱の強い弥彦さえ短期間でのあまり面変わり振りにいつもの憎まれ口の一つも出ないようで、心配そうに左之助の顔を伺っている。
「う?どこも悪かねえぜ?」
 しかし当の本人は心底不思議そうな顔で瞬くばかりだ。
「どこも悪かないって、だってその顔・・・・・」
「顔?」
 怪訝そうに眉を寄せて、掌で顔を撫でる。日頃はそれなりにきちんと剃ってある髭が、ところどころ無精な感じで剃り残されているところを見ると、どうやらここ数日ろくに自分の顔も見ていないらしい。さらになにか言い募ろうとしたらしい薫が、口を閉ざして剣心を見やる。訊き出せ、ということらしい。
 曖昧に顎をひいて剣心はそれに応じたが、本音を言えばその役は気が重い。下世話な想像を巡らす自分が疎ましい反面、左之助の気持ちが他の誰かに移った可能性を否定しえずにいた。だが、そんな浅ましい勘ぐりなどはやはり思い過ごしに過ぎず、左之助は他に何か気掛かりがあるのかもしれない―――と、自分の思考にはまりこんでしまった剣心は、むっつりと考え込む己に向けられる、薫と弥彦の訝しげな視線にも気付かない。
 いつになく静かな、というよりはうち沈んだ様子で神谷家の朝餉が終わり、めいめいに膳を片づける。肯き合った薫と弥彦は剣心にもう一度視線を投げて、午前の稽古のために道場へ向かった。
 見送った剣心は気の重さを抱えて、食事を終えてもなにやらぼんやりと縁側で足を投げ出している左之助の横を通って勝手へ向かい、湯を沸かして汲んでくる。彼の顔をまっすぐ見て話など出来ぬと、飯を食っている間に考えついた方法だった。
 まだ魂の抜けた様子で曇り空を眺めている左之助の横へ並び、手拭いを差し出した。
「うん?」
 振り仰いだ、すっかり生気の失われてしまった瞳に剣心の胸が痛む。思い悩むより動くことで事態を解決する彼がその本領さえも忘れ、こうまで面変わりするほど一体何を悩んでいるのだろうか。理由の如何に関わらず、なぜもっと早く話を聞いてやろうとは思わなかったのだろう か。ここへきてようやく決心がついた。
 精一杯の優しい気持ちで、柔らかに笑む。
「髭をあたってやるよ。どうした?ひどく剃り残しているな」
「お・・・・そうか・・・・?」
 瞬きして、顎を撫でる。指先が短い髭にあたり、じゃりじゃりと音を立てるのが剣心の耳にも聞こえた。初めて気付いたように、左之助がバツの悪そうな顔をする。
「こいつぁ気 が付かなんだ。へえ、でもお前ぇが髭ぃあたってくれんのか?珍しいこともあるもんだの」
 口調はいつものように軽いが、表情はあまり明るいとも言えない。正直に言えば、剣心は左之助の心変わりという疑念から脱せずに居る。だがそれならばなおさら、左之助を楽にしてやれるのは自分だけだとも知っていた。
 小柄を取り出し、左之助の横へ並ぶ。
「さ、こちらを向け」
 普段と変わらぬ笑顔を作る。左之助は素直に剣心に向き直ったが、いつも真っ直ぐに向けられる彼の視線は逸らされていた。震えそうになる手を辛うじて堪え、存外に線の細い形の良い顎を左手で捕らえて上向かせると、そのまま顎の下の剃り残しを剃っていく。顎の下から喉仏の上、反対側の顎へと鋭利な刃物が慎重に若い滑らかな肌の上を滑った。
「なあ、左之・・・・・薫殿も心配してござるよ。なにか気掛かりでもあるのではござらぬか?」
 なにもかもが日頃と変わりないように努力を払いながら、剣心は何気なく聞こえるように注意してようやくをそれを口にした。しかし、
「あ?」
 動揺したのは左之助の方で、大きく動いた拍子に剣心の小柄の刃が喉元を薄く切り裂いてしまう。
「馬、馬鹿」
「す、すまねえ」
 薄皮を一枚裂いただけだが、はっとするほど赤い血が一寸もない小さな傷から左之助のむきだしの胸元まで一筋の糸のように滑り落ちていく。慌てて手拭いを湯に浸し、剣心は胸元を拭って左之助の傷を上から押さえた。傷が喉元にあるせいで左之助はやや上を向く形となり、喉元を見つめている剣心とは自然に視線を合わせないで済む。
 何か言わなければと思いながらも言葉がなにも思い浮かばず、二人は視線の合わぬ同じ姿のまま、彫像のように固まってしまった。
「左之」
「あのよ」
 逡巡するような間の後に、二人の声は同時に発せられた。あ、という小さな言葉を飲み込んで見つめ合う。互いに言いかけた最初の言葉の形に唇を凍りつかせたまま、重い空気が数舜流れ、
「すまねえ剣心!!」
 左之助が剣心の気を呑む勢いで土下座した。剣心らしくもなく反応できずに、額を木の廊下にこすりつけるようにして頭を下げている左之助を呆然と見つめる。自分の疑念が真実であったらしい事実と、なにか別のことで左之助は詫びているのだと信じたくてその理由を必死に探す、錯綜する心の動きがめまぐるしいが、微動だにしない姿はむしろ傍目にひどく落ち着いて見えるだろう。しかし、顔を上げられずに床板へ額をくっつけたままの左之助がかくかくしかじか・・・・と始めた話に、その秀麗な口許が微妙にひきつり始めた。だが、顔を伏せた左之助は
その様子には気付かぬままに、みねが初めて自分の長屋を訪れた晩から昨夜までの経緯を一気に語る。
 幽霊が相手とはいえ、自分の行為がどうやら浮気に相当することにようやく気付いていた左之助は剣心の反応を見るのが恐ろしく、語り終えてもしばらく顔を上げられなかった・・・・・が、長すぎる沈黙に恐る恐る視線だけを上げてみる。実に意外なことに、剣心はいつもの笑みを浮かべていた。とは言え、その笑顔を鵜呑みに出来ないことくらいは、トリ頭と言われる左之助でもすでに学習済みだ。
「け、剣心・・・・・?」
 上半身を起こすと、顔色をうかがうようにこっそり下から覗き込む。
「左之、どうせつくのならもっとマシな嘘をつけ」
 朗らかな笑顔、冷たい声で剣心が言い放つ。
「嘘なんざ・・・・」
 まったくの真実のみを語った左之助は憤然と言いかけて、あまりに思い詰めていたせいで気付かなかったが、自分の話がまともに聞こえるはずのないことにここでようやく思い至った。
「い、いや違う!!騙りじゃねえ!!か、騙りに聞こえるだろうが、こ、こ、こいつぁほんの・・・・」
 慌てて言いつのったが、まともな神経の持ち主ならば左之助の話の内容をまともに相手にするはずがない。判っているので余計に焦る。
「相判った」
 笑顔のままの剣心が左之助の言葉を遮った。
「左之助は幽霊に懸想されて取り殺されそうなのだと、薫殿には言うておく。色男は大変だな」
 剃った短い髭のまばらに浮かぶ桶の湯を庭に空け、剣心は左之助に背を向けた。歩き出そうとする肩に手を掛けた左之助は、持ち前の剛力に物を言わせて引き止める。
 剣心が、ゆっくりと振り向いた。
 その目に浮かぶ冷たい炎のような静かな怒りにさすがにたじろぐ。
「・・・・・・・これでもお前の身を・・・・・・・」
 言いかける瞳にかすかな切なさが垣間見えた。焦慮と困惑に、思わず掴んでいた肩を放す。
「本気で案じたのだぞ。拙者だけではない、薫殿も弥彦もだ。お前がそうまで人の気持ちの通じぬ馬鹿だとは思ってもみなかった。もう結構」
 冷然と背を向け、剣心は数日前同様桶を小脇に抱えると厨へ向かって振り向きもせずに立ち去っていく。足音をさせないいつもの足取りと静かな後ろ姿からは想像も出来ないだろうが、正面から見る者が居れば思わず道を開けずにはいられない形相だ。
「け、けんし・・・・・」
 情けない声で引き止めようとした左之助の呼びかけなど、まったくの聞こえぬ振り。叫んで暴れ出したい心持ちで、左之助は頭を抱えて廊下にしゃがみ込んだ。


 そこはやはり友人の身が案じられるのだろう、出稽古から戻ってきた薫と弥彦は足を洗うのもそこそこに屋敷へ上がり込み、剣心に左之助の憔悴の理由を質した。
「左之は若い娘の幽霊に懸想されて取り殺されそうなのでござるよ」
「幽霊?」
 玄関口で出迎えた剣心の言葉に、薫と弥彦が眉を寄せる。
「自分でそう言ってござったよ。なんでも夜毎若くて美しいおなごの幽霊が通ってくるのだそうでござる」 
「ええっ?!じゃ、じゃあ大変じゃない!お祓いしなくていいの?!そうだ、うちのお寺の照双さまにご相談を・・・・・」
「そうだぜ!なに落ち着いて座ってんだよ剣心!!薫、さっそくその坊主に・・・・」
「あんた、照双さまのこと坊主呼ばわりするんじゃないわよ!不信心な子ね、もう!」
「・・・・・・・は?」 
 口惜しいほどの腹立たしさを覚えながら、それでもいつも通りの笑顔を浮かべる剣心は戻ってきた予想外の薫と弥彦の言葉にあんぐりと口を開ける羽目になった。ああでもないこうでもないと、幽霊に取り憑かれたらしい左之助のお祓いを論じ合う二人を、呆気にとられた面持ちで見つめる。しばしの傍観者の態の後、腕組みして考え込んだ。
 なるほど確かに、左之助の短期間でのあそこまでの憔悴ぶりを見れば、幽霊に取り憑かれているという言葉はそれなりに真実味がある。自分や左之助はそもそも神仏など信じぬ、神仏がなければ当然幽霊だの妖だのもこの世には存在せぬと頭から決めてかかっている人種だが、この二人ほど短絡的に頭から信じ込まずとも、世の人の感覚からいけば左之助が幽霊に取り憑かれているというのはあながち口からでまかせとも思われぬのかも知れない。
 それに、とさらに考える。
 左之助の話は、彼のトリ頭から出たでまかせにしては随分と筋が通っていた。まして上野池之端などこの本郷からは目と鼻の先、内田屋の娘が葬式を出したかどうかなど近所で訊けばすぐに調べのつくことだ。彼の憔悴振りは確かに尋常ではない。浮気を下らぬ作り話で誤魔化されたと思った自分とて責められはしなかろうが、幽霊話が真実かはともかく、もう少し真面目に話を聞いてやってもバチはあたらなかったのではないか。そう思うと、歳を取っても変わらぬ、自分の激しやすい短慮な気質が悔やまれる。
 などと思いめぐらしている間に、薫と弥彦が左之助をお祓いに連れていく話を早々にまとめてしまっていた。勢い込んで出かけようとする二人を慌てて押し止める。
「なんで止めるの剣心!」
「いやその、左之助の話を鵜呑みにせずとも少し調べてから・・・・・」
「調べなくても判るわよ、内田屋のおみねさんが気鬱の病で亡くなったの本当だもの。そんなこと知ってるはずない左之助がそう言うんなら、嘘なわけないじゃない!」
「え?」
 気が急いているのだろう、彼女らしくもなく乱暴に剣心の腕を振り払った薫の言葉に、思わず目を瞠る。
「ほ、本当の話なのでござるか、その、内田屋のおみね殿とか言うおなごが亡くなったというのは」
「本当よ。妙さんが言ってたもの。来月に祝言が決まっていたのに、おみねさんも相手の人も気の毒だって」
「妙殿が?」
「そうよ。同じ町内だし、すごく仲良くはなかったみたいだけど、時々そのおみねさんとお喋りするくらいのお付き合いをしていたんだって。お葬いのお手伝いにも行ってるのよ」
 提示された意外な事実に唖然とした。ではやはり、左之助の語った言葉は真実なのだろうか。
「左之助あんなにやつれちゃったし、グズグズしていられないわ。今からお寺に行ってくるから・・・・」
 出ていこうとする薫をもう一度止める。
「けんし・・・・・」
 憤然としかけた薫が、剣心の真剣な表情に口を噤んだ。
「ともかくも、拙者がこれから行って左之の様子を見てくるでござる。薫殿と弥彦は、待っていてくれぬだろうか」
 しばし目を見交わした二人は、もう一度剣心に視線を戻して肯いた。


 剣心の足ならば遠くはない深川までの道を、いつになくもどかしげに歩を運んでいく。もっともようやく日暮れ時、左之助の言葉が本当ならば早く着いたところでみねの幽霊が訪れるには随分間があるが、それでも少しでも早く彼の側へ行きたい。気が急く余り、途中通った一軒家の垣根越しの、避けるのを忘れた庭の木の枝に肩をひっかけた。いささか苛立たしく振り向いてほつれた縫い口に絡まる枝を外すと、可憐な桃の花が匂うように咲いている。愛らしい花をしばし見つめ、ことに花のたくさんついた一枝を、桃の木に心の内で詫びながら折取った。花盗人に罪はないと言うし、まして人助けになればこの木もこの家(や)の住人も許してくれるだろう。
 折取った桃を携えて、さらに深川へと先を急ぐ。
 ようやく破落戸長屋にたどり着いたのは五つ半というところ。さすがに辺りは暗く、丸に左の字の障子の内側は闇。声を掛けてみようかと思って、やめた。出かけてしまっているなら、少なくとも今夜彼の身に危害が及ぶことはなかろうし、中に居るなら自分が居ることは知らせぬ方がよかろう。そう思ってから、女子供でもあるまいに左之助の言を信じかけている自分に苦笑した。しかし半信半疑ながらも左之助の部屋が角部屋なのを幸い、壁の陰に身を隠す。彼の言葉が真実ならば、みねはまだ来るまい。
 破落戸長屋の名の通り、住人はかつての左之助のごとく裏の稼業に手を染める者、あるいは定まった職を持たずに世過ぎしている者が多いため、留守が多いのだろう長屋の灯りは殆ど消えている。左之助の部屋とは対角線にあたる、向かいの棟の木戸を入ってすぐの家族者の部屋の灯りだけはしばらく灯っていたがそれもじきに消え、長屋は闇と静寂に沈んだ。
 土の上に片膝をついたまま、部屋の中の気配に神経を澄まし続ける。静かすぎて、さすがの剣心にも気配が探れない。居ないのならばいいが、左之助が居るとして、寝てしまっているのかあるいは憔悴しきっていて気配を拾えぬのか―――後者の可能性にぞっとした。
 昼間、髭をあたった時の左之助の顔を思い出す。数日前に見たときとは比べ物にならぬほど、頬はこけ、目は落ちくぼみ、隈は色濃く、肌も髪もひどく乾いてしまっていた。仮に他に好いた誰かが出来て、それを自分に言えずに思い悩んでいたのだとしても、ああまでやつれはしないだろう。結局自分の感情で頭が一杯になり、左之助のことにまで気が回りはしなかったのだ。
 情けなくも居たたまれなく、気が沈みかけた瞬間、剣心は総毛立つような不穏な空気を感じて顔を上げた。壁の陰から慎重に様子を伺うと、いつの間にか左之助の部屋の前に美しい娘が立っている。物思いに耽ってはいたが、若い娘の気配ごとき、まして砂利混じりの砂地を踏んでくる足音を剣心が気付かぬはずはない。月明かりに透かしてみれば、娘の白い横顔は先入観が無くとも生きている人とは思えぬほどに青白く、そしてなにより生気というものが感じられない。
―――これは・・・・・左之が語った言葉は真実だったか・・・・・?
 それでも未だに信じ切れぬ思いで、やはり室内に居たらしい左之助が娘を迎え入れた後、少しの間を置いてから正面へ周り、障子を細く開けて中を覗く。左之助が行灯の火を入れているのが見えた。狭い長屋の煤けた粗板の上に左之助と向かい合って座る娘は、薄暗い行灯の灯りでさえ荒れ地に咲いた場違いの牡丹のような艶やかさだ。我知らず、剣心は汗ばむ掌で袴を握り締めていた。
 見守る内にも、生気のない娘の顔がそれでも歓喜に輝き、よくは聞き取れないがなにをか左之助に語りかけている。しばらく左之助は聞いているのかいないのか、思案顔で肯いていたが、
「おみね、すまねえ!」
 突然両手を板の間についた。娘が驚いた顔で半分ほども腰を浮かす。困惑した表情で床に額をつけたままの左之助におずおずと白い手を伸ばす、その指先が剛い髪に触れるか触れぬかの位置で、左之助がやつれきった顔をあげた。行灯の暗い光りに浮かぶその顔は昼の光に見るより一層痛々しい。我知らず、剣心の眉が苦痛を感じたように歪んだ。
「相楽様?」
 鈴振るような声での短い単語が、室外まで聞こてくる。
「済まねえ、おみね。俺ぁこれ以上お前ぇとこうして会うわけにゃあいかねえんだ。堪忍してくれ!」
 娘はますます困惑を深めた表情で、描いた柳のような眉をしならせる。
「俺に惚れて命を縮めちまったてえお前ぇにほだされて毎晩こうして会ってたが、俺にゃあ心底惚れた奴が居るんだ。取り殺されたっておかしかねえのを話すだけで構わねえって言ってくれるお前ぇの気持ちぁ嬉しい。申し訳ねえとも思う。けど、俺ぁこれ以上あいつを裏切るわけにゃあいかねえし、来るなてえ代わりにお前ぇに俺の命をくれてやるわけにもいかねえんだ。俺ぁ・・・・・・及ばなくともあいつの側に居て、あいつの力になるって決めてんだ。いつか、あいつの側で、あいつの力になれる男になるって決めてんだ」
 剣心の鼓動が、大きく鳴った。聞こえてしまうのではないかと思うほど動悸が激しく、右手で心の臓を上から押さえる。
 惚れた腫れたと、左之助は挨拶のごとき気安さで言う。それを疑いはしないが、口にする気安さと同じ程度の気持ちなのだろうと、心のどこかで思っていた。それを納得した上で受け入れた想いのつもりだ。しかしこうして、自分の居ない場所で他人に対して真摯な表情で語られる彼の心に、どうしようもない程胸が高鳴る。そして―――唇を重ね、肌を合わせるそれより先に自分たちは友人であるのだと、そんな根本の部分を見失っていた自分が恥ずかしかった。ともすればそうして忘れる大事なことを、忘れそうになるたびに左之助はその指で真っ直ぐに標示(しろしめ)し、迷わないように導いてくれる。
 胸に、暖かい火が道標のように灯る。
―――まず友人、ではないは
 室内を注視しながら、剣心は心中の前言を訂正した。
 恋人であり友人、なのだ。いつか心の均衡がどちらかに傾くときがくるとしても、今その二つは分かちがたい。
「・・・・・・・わかりました」
 再び額を粗板に押しつけた左之助の頭の上で、みねの呟く静かな声がする。左之助は頭をあげ、剣心は顔を障子の隙間に押しつけるようにして、みねから目を離さない。
「心(しん)から済まねえって思ってる。お前ぇに、最初(はな)っから言っとかざあならなかったんだ。堪忍してくれ」
 剣心は一度も見たことのない神妙な様子でうなだれている左之助にある種の同情心が湧いたが、同時にいささか拗ねた心持ちにもなる。
「お前様に恋仲のお方が居たなんど、気を回しもせぬわたしの考えが浅かったのでござんす。それならいっそ・・・・・」
 しかし、立ち上がったみねの形相に、そんな他愛なくも長閑な感情は一瞬で破られた。
 左之助の口がぽかんと開く。
 形相、どころの騒ぎではない。左之助と剣心の目の前で、みねの美しい面差しが鬼女のそれへと変じていく。芝居の早変わりなどではない、小さく愛らしい口は見る見るうちに耳まで裂け、糸切り歯は牙へと変じ、滑らかな額の肉が醜悪に盛り上がる。鼻梁が鷹の嘴のように高く突き出して折れ曲がり、白魚のような指さえ関節が節くれ立って、爪が猛禽の鋭 さを備えて長く伸び出す。結綿の元結いが切れて、豊かな黒髪が滝のようにみねの上半身を覆った。さながら芝居の清姫か、恋しい男への妄執を総身に纏い、言葉そのままの鬼気迫る姿でゆらりと立ち上がる。
「お前様に想いをかけられている憎いそやつの首をとり、冥土の土産にいたします。まずはお前様の喉笛かっ切り、共ににあちらへ参りましょう」
 言葉遣いに変わりはないが、聞こえる声は地の底から響く亡者のそれだ。気を呑まれたか腰が抜けたか、左之助は鬼女に変じたみねを口を開けたまま唖然と見詰めるばかりだ。みねの鋭い爪が、あっと思う間もなく左之助に迫る。
「左之っ!!!」
 障子を開け放って、剣心は手にしていた桃の花を鬼女の顔面に投げつけた。ぎゃっと悲鳴をあげてみねが目を覆う。座敷に飛び込みざま、逆刃刀の刃を返してみねの胴を横に薙ぎ払った。呆気ないほど微かな金属音がして、最後のあがきのように剣心に憎悪の眼差しを向けたみねが飛びかかってこようとしたが、周囲に散った桃の花弁が結界の役割を果たし、果たされぬままにその姿が溶けるように消えていく。下段に構えたまま警戒を解かぬ剣心と、相変わらずうつけたように床の上に腰を落としたままの左之助の耳に、艶めいた銀(しろがね)の触れあう音が聞こえたのとみねの姿が完全に消えてしまったのは同時だった。
 構えを解いた剣心が床に屈み込み、みねの居た場所からなにやら拾い上げる。掌に乗せた物を呆けたままの左之助に無言で差し出した。蝶をかたどったびらびらの簪。みねが髪挿していた物だ。
「・・・・・・疑って済まなかったな」
 抜き身を左手にぶらさげたままの剣心と 、足の真ん中で見事に三つに断たれた彼の掌の上の簪を見比べるように視線を動かしていた左之助が、気の抜けたような笑い声をあげる。
「はは、とんだ円朝の怪談噺だの」
 簪を乗せて差し出したたままの剣心の右の手首を唐突に掴んで、軽い身体を懐に抱き寄せた。
「!」
 剣心が咄嗟に逆刃刀の刃を戻す。放り出された簪が床に落ち、再びしゃらりと鳴った。
「左・・・・・」
 息苦しい程に抱きしめられた胸の中でもがき、辛うじて呼吸できる隙間を作った剣心が抗議するように名を呼びかけたが、息苦しいどころか骨でも折れてしまいそうな力でさらに強く抱え込まれて苦痛に眉をしかめた耳元へ、
「助かった・・・・・・助(す)けてくれてあんがとよ」
 安堵の溜息とともに囁かれた言葉に、暴れるのをやめた。手探りで逆刃刀を床に置き、躊躇いがちに剛い黒髪を撫でる。しかし、その手が止まった。止まったどころか今まで撫でていた髪をつかみ、自分の身体から引き離そうと手荒く引っ張る。
「いてっ!なにしやがる剣心!!」
「なにしやがるじゃない!なにやってるんだお前は、たった今死にかけたくせに・・・・・」
 眉を吊り上げた剣心は、袴の内側に入り込んで自分の下肢を探り始めた左之助の腕を思い切りよく抓り上げる。もっとも、左之助がそんなささやかな抵抗を構うはずもない。悪びれもしない楽しそうな笑みを未だに憔悴の濃い顔に浮かべて、
「ほらよ、気が抜けると途端に腹が空くてえことがあるじゃねえか。あれだよ、あれ」
 などと判るような判らないような理屈を並べて、これだけやつれていても変わらぬ強い腕力で剣心を床に押し倒した。もがいてみても、まともに組み合ってしまっては左之助に敵うはずがない。
「放せ左之!拙者は飯の一膳と同じ扱いか!!」
 上からのしかかられて、膝で腹を思い切り蹴り上げてみるが、固い腹筋にはいささかも通じない。それでも、手首を縛めていた力が緩んだ。
「なんでえ、したくねえのかよ?俺ぁしてえぜ。すっかり無沙汰じゃねえか」
 不思議そうな顔で問われて、一瞬言葉を失う。
「・・・・・・・獣かお前は、馬鹿」
 実際にそれほど短絡的かつ直裁な思考回路をしているのか、それとも―――緊張と不安と懊悩からの解放で昂った感情が性欲にすり替わったのか、はたまた同じ感情に由来して甘えたいだけなのか。左之助に説明を求めてみたところで本人にも判るまい。溜息をついて、肉の落ちた首筋に両の腕(かいな)を絡める。剣心にしてみれば心境はひどく複雑だ。
 同じ男として、みねに応えてやった左之助の気持ちは判る。友人として、その心根は何物にも代え難く好ましい。だが左之助と枕を交わす間柄として、いくらそんな理屈が判ってみたところで感情は納得のいくはずがない。
 暫時己に問いかけ、結局感情に従うことにした。
「してもいいが、その前に拙者に言うことがあるのではないか?」
 葡萄(えび)色の瞳で真っ直ぐに見上げると、左之助は喉の奥で物が詰まったような呻きをあげて、バツの悪そうな顔で剣心の上から身を起こす。解放されてゆっくりと起きあがった剣心の前に、左之助は大柄な体を丸めて膝を揃えた。
「・・・・・・済まねえ、悪かった。もうしねえ」
 口の中でもごもごと詫び言を呟き、頭を下げる。心持ち頤を上げ、つんと澄ました顔の剣心がその内こらえられないように口許を緩めた。
「いいよ。・・・・・・左之」
 軽く手招きして、側へ寄ってきた大きな犬を再び抱きしめた。窮屈そうに身体を丸めて、左之助は剣心の肩口に頭を預ける。細い胴に腕を回すと随分余って、どちらが抱きしめているやら抱きしめられているやら判らない。
「お前が拙者に操立てておみね殿にすげなく出来るような人間なら、お前ではないものな」
 物分かりのいい科白の裏を読めるほど聡くはない左之助は寛容に聞こえる言葉に胸中不満を覚えないではないが、そんなことを言えば余計に剣心を怒らせる程度の理解はあるので敢えて口を噤んだままだ。
「けどよ、悪い娘じゃなかったんだぜ。なんであんな鬼みてえになっちまったんだか・・・・・」
 しばしの沈黙の後で、左之助がぽつりと口を開く。
「さて・・・・・・男前もいいことばかりではないと言うところだな」
 冗談なのか本気なのか計りかねる口調に、左之助は顔を上げて剣心を凝視する。
「なんだ?」
 戻ってきた本気らしい問いかけに、混乱は深まるばかりだ。眉間に皺を刻みかけてやめる。考えても詮無いことは考えない主義、ましてこの剣客を理解しようなどどだい無理な話だ。
「ま、話ぁもういいや」
 と、待ちきれないように剣心の袴の紐を解き始める。為されるままに身を委ねる剣心の口許が拗ねたように突き出されていることには、惜しくも気付かなかった。


 むきだしの四肢(よふし)を絡めたまま、剣心は左之助の腹の上から枕元に右手を伸ばす。左之助の命を救ってくれた桃の枝を、花弁が派手に散ってしまってみすぼらしくなってしまったが捨てずに忍びず、欠けた湯飲みに水を張って挿してある傍らをなにやらごそごそと探っていた。
「なんだえ?」
「うん、これをな」
 戻ってきた掌の上に小さな華やぎが乗っている。みねの身を現(うつ)していた簪の残骸だった。
「・・・・・おみね殿の菩提寺に預けに行かぬか?」
 上から覗き込む剣心の長い髪が左之助の頬をくすぐる。
「おみねの菩提寺?」
 屈託ないのか傲岸なのか、左之助が誰彼構わず呼び捨てにするのは今に始まったことではないが、仮にも肌を合わせた娘の名を呼ぶのを聞けば、やはり剣心の心中は穏やかではない。それをおくびにもみせずに首肯く。
「ああ。薫殿に訊けば、妙殿に尋ねてくれよう」
「そうか、赤べことおんなじ町内か。そうだな。成仏させてやりたかったっけが・・・・・浮かばれてねえんだろうな」
 しんみりとした口調で簪を受け取った左之助に、思わず自分の妬み心が恥じ入られた。もっとも当の左之助は剣心が嫉妬心を熾したことなど知れば、嬉々として再び抱きすくめたに違いない。
「ともかく、そうと決まれば今宵はもう寝(やす)もう。その顔色では御住持殿に誰の葬いかと問われるぞ」
 あまり言わぬ軽口で紛らすと、甲斐あって左之助が笑ってみせた。
「そうだな。ならよ、明日の朝はお前ぇの美味え飯、食わせてくんない」
「さて。明日の朝はきっと薫殿が飯を炊いて待ってくれてござろうよ」
「ああ・・・・・違えねえ」
 うんざりとした顔で溜息をついた左之助の横へ笑いながら身を伸べるや、大きな体が懐に潜り込み、逞しい腕が剣心の胴に回された。剛い黒髪に鼻先を埋(うず)めて、頭を肩口に抱きしめてやるとすぐに健やかな寝息を立て始める。桃の芳る春未だ浅い闇の中、剣心は一晩恋人の眠りを護り続けた。


 翌朝、左之助と剣心は眠れなかったらしい赤い目の薫と弥彦に迎えられた。ことの顛末を告げると、左之助の身を案じる気持ちが怒りとなって外に出てきた二人に何故もっと早く言わなかったと散々に責められ、最後には安堵で泣き出した彼女の心を汲んだのだろう、左之助は文句一つ言わずに薫の炊いた焦げた飯と煮詰まった味噌汁をきれいに平らげた。
 朝餉の後で薫に赤べこへ行って貰い、みねのことは伏せて谷中の初音にあるその菩提寺を聞き出してきてもらってから、二人が出かけていった時刻はすでに正午に近い。
 寺を訪ねてみねの墓に参った後、三つに分かれた簪をみねの持ち物だと言って差し出すと、しばらく簪と左之助の憔悴した顔とを見比べていた住職は、簪を手に入れた経緯もなぜそれが三つに分かれているのかも訊かず、手厚い供養を約束して受け取ってくれた。
 山門を潜り、細い坂道を下りながら左之助が気持ちよさそうに伸びをする。
「いい天気だなあ。大川に船でも浮かべて一杯ぇやっか?」
 つい数刻前に命拾いをしたばかりとは思えぬ長閑な科白に、剣心が笑い出す。
「なんだ?」
 眉を寄せ、いささか機嫌を損じた口調だが、
「いいや。お前は長生きするよ」
 笑いすぎたのか目尻に浮かぶ小さな雫を拭う手元をそっと捕らえて、左之助は己の口許に引き寄せた。着古して柔らかい着物の袖が肩まで落ちて、剣心の白い肘も二の腕もむきだしになる。塩味の水滴を吸い取る唇に、往来にも関わらず珍しく素直に剣心は己の指を委ねた。
「・・・・・・・あまり案じさせるな、左之」
 日射しと同じ柔らかな声に、黒い瞳が不思議そうに瞬く。そしてすぐに笑み崩れた。
「そいつぁ俺も果報だの。そうか、お前ぇが案じてくれるのか」
 そうかそうかと繰り返し、鼻歌混じりの上機嫌で背を向けた、その手の内にはしっかりと剣心の小さな手が収まっている。
「人と行き会うまでだぞ」
 目元を微かに染めて釘を差し、剣心は華奢な指を節くれだった指に絡める。命拾いの見舞い代わりと、つれない言葉の裏はやはり未だ読めないままに、それでも左之助の機嫌は変わらない。
 白い小さな蝶が二頭戯れるように舞っている駘蕩とした春の昼下がり、言葉も交わさずに緩やかな歩調で家路を辿る。袖を擦る沈丁花が、二人の袂に馥郁と香りを移した。


了.      '02.03.06.   20,000HITキリリク作/謹んでsonic blue様へ

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